キスの熱
そして、すっかり夜も更けた頃。
腹もくちくなり、たっぷりと酒をしたためて満足した仲間達が、ベッドに潜り込んで眠りを楽しんでいるころ。
アリーナとクリフトはようやく戻って来て、音を立てぬようにそっと宿の扉を開けた。
入ってすぐの勘定台も、客室へと続く広い廊下も全て明かりは消され、二階へ昇る階段に吊した燭台だけが、ぼんやりしたオレンジ色の光を周囲に広げている。
「みんな、眠ってるみたいね」
小声で辺りを見回すアリーナに、クリフトは頷いた。
「もう日を越えてしまいましたから。わたしたちも早く戻って、明日のために休みましょう」
「うん」
「お部屋までお送りいたします」
「ありがとう」
アリーナに付き従い、二階の部屋の扉の前まで来ると、クリフトはうやうやしく頭を下げた。
「ではおやすみなさいませ、姫様」
アリーナはあいまいに微笑み、ドアのノブに手をかけたが、そのまましばらくためらい、やがて振り返った。
「……お前も一緒に、入らない?」
クリフトの顔がさっと赤くなった。
「いえ、わたしはここで」
「背中の怪我の手当てをしたいの。すぐに終わるから入って」
「この程度の傷、大丈夫です。少し休んで魔力が戻れば、自分でホイミをかけますゆえ」
「お願い」
アリーナの声に滲んだ真剣な響きに、クリフトははっとした。
「わたしに魔法は使えない。でもお前の傷を少しでも癒やせるなら、その手助けがしたいの。
わたしが出来る精一杯の手当てをするから、入って。クリフト」
「……それでは」
クリフトはもう一度頭を下げた。
「恐れ多いことですが、わずかだけ失礼させて頂きます」
アリーナはほっとしたように息をつくと、ゆっくりと扉を開けた。
建て付けが悪いのか、壁に取り付けた金具から、キイと猫の鳴き声のような音が響く。
殺風景な部屋は狭く、樫の木の戸棚とテーブルと椅子、小さな寝台だけが素っ気なく置かれ、ミネアの眠る一等客室のように暖炉や天窓もなければ、客のための飾り気らしいものは少しもなかった。
壁の燭台の火が、廊下から入り込む風で揺れる。
アリーナが扉を閉めると、クリフトは何か言おうとして顔を上げたが、思い直したように口をつぐんで俯いた。
「さあ、座って」
アリーナは戸棚から小さな木箱を取り出し、ちょうつがいを外してテーブルの上においた。
かすかに鼻を刺す、薬品の匂い。小さな薬箱の中には、液体の入った瓶がいくつかと、包帯や綿が詰めてある。
「服を脱いで。傷を見せてちょうだい」
クリフトは硬い表情を浮かべていたが、黙って言われた通りに上着を脱いだ。
萌黄色の法衣を脱ぎ、更に生成りの下衣から長い腕と頭を抜くと、若くしなやかな裸の上半身が、暗がりの中にあらわになる。
「傷に、薬を塗るわ」
内心の動揺を押し隠しながら、アリーナはかすれた声で尋ねた。
「少し痛むかもしれないけど、大丈夫かしら」
「構いません」
クリフトは静かないらえを返した。
「どうぞ、姫様のご自由に」
「かなり深いわ。魔物の鋭い爪にやられている。
お前、こんな大きな傷を受けながら、よく平気で歩いていたわね」
「姫様のご無事を確認する事のほうが、先決でしたから」
「しみるわよ」
アリーナは床にひざまづき、薬の瓶の蓋を開けると、薬品を浸した綿を手に取り、そっと傷口に押しあてた。
クリフトの顔がわずかに歪んだが、じっとうつむいたまま、声ひとつたてなかった。
血を拭い、もう一度綿で押さえると、赤黒く凝固した傷口に薬が染み込んで行く。
アリーナはその様子を注意深く見つめ、それから顔を上げて、クリフトの半身をそっと眺めた。
(クリフトの身体)
肩幅の広い、若鹿のようにしなやかな背中。
北方サントハイム人らしく白い肌の大理石のようなきめ細かさは、まるで女性と見紛うばかりだ。
だが流麗な肩甲骨や、鞭がしなうように引き締まった無駄のない背筋は、もはや少年時代の面影を消し去ったまぎれもない男の、それも非常に美しい、青年の完成された身体を造り上げていた。
(考えてみたら、クリフトの身体を見るのなんて、これが初めてかもしれない)
背中を斜めに横切る傷跡をなぞりながら、アリーナはまるで意識が頭から抜け出して子供に戻って行くような、奇妙な感覚にとらわれた。
まだ幼かった、あの頃。夏の暑さに耐え切れず、一緒に水浴びをしようと何度も誘った。
けれど少年クリフトは顔を真っ赤にして頑なに首を振り、いつも逃げ出すように一目散にその場を走り去ってしまったものだった。
だからアリーナは仕方なく、クリフト抜きで町の子供達と水を浴びて遊んだのだ。
(きっと、あの頃から)
まだあんなに小さかったあの頃から、クリフトにとって自分は子守り相手の小娘ではなく、運命の恋に落ちてしまった、たったひとりの「女性」だったのだろう。
五つも年下の幼い子供に恋心を抱くということは、一体どんな気持ちのすることなのだろうか。
あの頃の五つという年齢の差は、まるで大人と子供のように、心も身体も全ての成長に、天と地ほどの隔たりがあったに違いない。
(でもクリフトといて、そんな違和感を感じたことは一度もなかった)
幼くてわがままな自分に、いつも日だまりで包み込むような、優しく温かなまなざしを注いでくれたクリフト。
(きっと、ずっと、ずうっと)
(神様に祈るみたいに、わたしのことだけを、想ってくれていたんだね……)
不意に息すらつけないほどの愛おしさがあふれ、こらえきれなくなる。
アリーナは手にしていた綿を床に落とし、衝動にまかせてクリフトの背中を抱きしめた。
「姫さ……」
「動かないで」
アリーナはクリフトの背に顔を埋めて囁いた。
「少しだけでいいから……、こうしていて」
ほの暗い明かりが揺らめく部屋の中、二人はそのままじっと動かずに、不器用に身を寄せ合ったまま、ひそやかな時間だけが流れて行った。