キスの熱
「アリーナ様」
クリフトは座り込んだアリーナを抱き起こし、思案顔でじっと見つめた。
そのまま迷うように首を傾けて黙り込んでいたが、やがて思い切って顔を上げる。
本当にごめんなさい、もうしません、と謝るのだろうかと思ったが、そうではなかった。
「聖なるサントハイムの尊き王位継承者であらせられるアリーナ様に、このようなことを申し上げる非礼を、どうかお許し下さい」
クリフトの声は低く静かだったが、抑え切れぬ苦渋に満ちていて、それがショックのあまり脱力していたアリーナを、我に返らせた。
「そのように、唇を合わせてまで行う医術のことですが」
何度も息を吐き、ためらいながら続ける。
「なぜ一介の神官であるわたしが、教会という場所にいながらにして、病を得た人々と深く関わっているのか、ご理解頂けますか。
アリーナ様、街には医療施設が足りないのです」
「医療……?」
もはやキス云々ではなく、話が全く違う方向へと向かい始めたことにアリーナは困惑して、クリフトを見上げた。
「もちろん、少しもないというわけではありません。ですが実際に診療を受けることが出来るのは、ごく限られた一部の富裕層だけ。
下街に住む貧しい民のほとんどが、薬を飲むことも出来ず、手術を受けることもなく、自分が何の病だったのかすら解らぬまま命を落として行くのです。
教会には苦しんでいる人々が毎日、救いを求めて引きも切らずやって来る。
わたしが薬草の煎じ方を覚えたのも、なんとかその方たちを助けることが出来ないかと思ったからです。
だが正式な医療施設ではない教会では、彼らに対して出来る事は限られている。
本当に必要なのは、わたしのように付け焼き刃の医術を施す、中途半端な聖職者などではありません。
営利にこだわらず、貧しくて診療費を払えない民をも分け隔てなく診察する、例えば宮廷医師のように、王家によって身分と給金を保証された、正統な医術者です。
そうすれば流行り病も減り、闇市で値段の釣り上げられた薬の売買が横行することもなくなるでしょう。
わたしは……わたしはいつか、機会を頂けるのならば、そのことについて陛下に謹言申し上げたいと、ずっと思っておりました」
「……つまり、お前が言いたいのは」
アリーナは頬に手をあてて、考えながら言った。
「街にはもっと、たくさんのお医者が必要と言うわけね。
お金儲けのことなんて考えず、街のみんなを公平に診察してくれる、厳しい修業を積んだ、真面目で心の正しい医者が」
「はい」
クリフトは深く頷いた。
「たくさん必要です」
「今の話を伝えれば、お父様はきっと、すぐにギルドに命を下してくれると思うわ。
あのお父様のことだもの、まさか知っていて見過ごしているわけではないと思うの。
きっと気付いていない。いいえ、もしかしたら知らされていないのかもしれないわ。
在位三十年ともなると、内政についてはきっと、大臣たちに任せきっている部分が大きいんだと思うし…」
アリーナは不意に目を見開いて、ぱっと顔を明るくした。
「そうだわ!」
さも素晴らしいことを思い付いたと言うように、勢いよくクリフトの両手を掴む。
「クリフト、わたしと結婚しなさい!」
「は……、ええっ、わあっ!」
クリフトはぎょっとして、思わず抱き寄せているアリーナごと、どたっと後ろにひっくり返ってしまった。
「い、痛たた……」
「ちょっと、なにやってるのよ!大丈夫?」
「は、はあ……いえ、その……い、今なんと」
「わたしと結婚して、国王になりなさい」
アリーナの誇らしげな声を、クリフトは呆然と聞いた。
「お父様は素晴らしい施政者でいらっしゃるけれど、なにせ生粋の王族だから、市井の問題にはどうしても疎いのよ。
その点お前なら、城下で起きている問題を全て把握しているし、なにより誠実で皆に公平な、規律正しい統治を行うことが出来るわ。
巷で評判の「神の子供」が、ついにサントハイムを統べる王となるの。こんな素晴らしいことはないわ!」
「あ、アリーナ様……」
「クリフト」
アリーナは微笑んで、言葉を失っているクリフトの頬に、そっと手を触れた。
「お前は他人の苦しみや痛みを、自分のものとして受け止める事が出来る人。
小さな頃から、いつも言っていたわよね。いつかこの身を神のご意志のために役立てたいって。
もしかしたらお前はこの世界だけではなくて、サントハイムという国そのものを、救うために生まれたのかもしれないわ。
わたしには解るの。お前は神様に愛されて生まれて来た人。
この世でたったひとり、生と死を司る力を持つ、神の子供なのよ」