キスの熱


「ち、違います!」

この時ほど、自分にもっと上手く言葉を紡ぐ力があったならと、歯がゆい思いをしたことはない。

伝えたい事がどうやら、アリーナ姫に真っすぐに伝わっていないことに気付くと、クリフトは慌てふためいて、思わず啜り泣くアリーナの肩を両手で掴んだ。

「だから、わ、わたしが……、わたしが好きなのはアリーナ様、貴方だけなんです!」

「ありがと」

アリーナは涙を拭うと、世にも悲しげなため息をついて首を振った。

「きっとわたしはこれから生涯、深い後悔を胸に抱えて生きて行くことになるわ。

もしもう少しわたしが賢くて、もう少し女性らしさが身についていれば、こんなことにはならなかったのかもしれないんだもの。

でもミネアは、とても素敵な人よ。必ずお前は幸せになれるわ。

今は祝福出来ない。でもきっと、いつかは……」

「だっ、だから!」

クリフトはすっかり混乱しきっていた。

そもそも先程からアリーナが、何度もミネアミネアと連呼している理由がまず、さっぱり解らない。

(わたしがミネアさんの看病を、つきっきりでしたからなのだろうか?)

(アリーナ様はまさか、わたしに焼きもちを?)

考えた途端、脳の中心までかーっと熱が駆け抜けて、クリフトは急いで首を振った。

(ま、まさか!なんて図々しいことを)

(アリーナ様がわたしを……なんて、そんなことがあるはずがない)

(どうかしている……どうかしているけれど)

(ならば、どうして)

アリーナ姫はこんなにも悲しそうに、はらはらと泣き続けているのだろう?

「ああ、こんなに泣いたのは初めて。体の中の涙がなくなっちゃうかも」

アリーナは鼻をすんと啜ると、身につけている絹の短衣の裾で、ごしごしと瞼をこすった。

「でもこれで少し、すっきりしたわ。

例え大好きな人に振られちゃったからって、いつまでもめそめそしてるのなんて、わたしの性分には合わないもの。

どんなことがあっても、わたしはクリフトの幸せを一番に願ってる。それはこれからも永遠に変わらないわ」

「アリーナ様……」

アリーナ姫は泣きすぎて腫れた目を細め、にっこりと笑ってみせようとした。

「だからクリフト、わたしは大丈夫よ。

時間はかかるけど、いつかちゃんとお前の事を諦めるから、心配しないで……」


「……諦めちゃ、駄目です」


不意に力強く引き寄せられて、アリーナは言葉を失った。

(え?)

一体なにが起こったのか解らずに、瞬きを繰り返してみても、星の光以外明かりのない暗闇の中では、互いの姿さえもう確かめることは出来ない。

額に押し付けられた尖った顎。

頭の上から聞こえる、何かに耐えているようなやるせない吐息。

鼻先が触れた柔らかな衣から、かぐわしい白檀の香りが鼻孔に忍び込んで来て、アリーナは膝を着いたまま、クリフトが自分を抱きしめているのだと、ようやく気がついた。


「わたしが好きなのは、貴方です」


熱い息の混じる声がかすれる。

広い肩が微かに震えている。

クリフトは繰り返した。


「ずっと、ずっと好きだった。


今までも、これからも」



頬に押し当てられる引き締まった胸から漂う、香油と蝋の甘い匂い。

抱きしめられて初めて解る、見た目よりずっと逞しくて広い身体。


(……男の人なんだわ)


自分を包む腕や肩の大きさと、しなやかな流線を描く鎖骨をとらえ、アリーナはまるで夢を見ているように、ぼんやりと考えた。

(クリフトはもう、わたしの横で転んでべそをかいていた、泣き虫の小さな子供じゃない。

わたしより大きくて、わたしよりずっと強い、大人の男の人なんだ)

「……ねえクリフト、お願いがあるの」

腕の中のアリーナの突然の言葉に、クリフトは戸惑うように小さく首を傾げた。

「なんでしょうか」

「暗くてよく見えない。近くでもっと、顔を見せて。わたしに」

アリーナは腕を上げてクリフトの頬を両手で包み、自分の方を向かせた。

蒼い目がためらいがちに、アリーナを見つめ返す。

暗い草原の中、ささやかな星の光の下。

冷たい夜風から守るようにアリーナを抱きしめるクリフトの、ほつれた前髪がそよぐ。

好きだと口にした後すぐに、怯えたように引き結ばれた薄朱色の唇。

(綺麗な顔だわ)

(長い睫毛に、眉の形も輝く弓張り月のよう)

(こんなに目が蒼いのは、小さな頃に亡くなってしまった両親の遺伝なのかしら。まるで空を切り取ったみたい)

(ずっと遠くのあの海に住む、名も知らない群青色の魚の鱗みたい)

その時、雲が割れた。

銀色の月明かりに浮かび上がる青年の面差しに、アリーナは思わず言葉を失くして目を奪われた。

月と星に照らされた瞳が、ありありと語っている。

こんなにも彼は、自分のことを愛しているのだと。


(そうだったんだ)

(どうして気づかなかったんだろう、今まで)

(こんなに大切な人がずっと傍にいたことに、どうして)

(こんなに大切に想ってくれていたことに、どうして……)

いつしか二人の息が混じるほど、顔と顔が間近に近づく。

アリーナは迷った末に、クリフトの首にそっと腕を回した。

クリフトの歯がかちかちと鳴り、心臓の鼓動が激しく脈打っている。

まるで母親が子供を守りたいと願うような、強い愛情が込み上げて、月が隠れてしまわぬうちに伝えようと、アリーナは背伸びして、夜露で冷えた小さな唇をクリフトの耳に寄せた。


「好きだよ、クリフト」


やがて少年が、ずっと探して続けた宝物を見つけたように、怯えながら、震えながら少女の顎を持ち上げる。


睫毛が伏せられ、吐息と吐息が淡く溶け合うと、まるで触れれば壊れてしまうかのようにおずおずと、二人は唇を重ねた。
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