キスの熱



「ひっ、う、う……」


まるで夜空から、ぽとぽと淋しく落ちる雨のしずくのように、アリーナ姫の泣き声が、暗い草原に静かに響く。

暗闇は濃くなり、星は大地を照らそうと更に黄金色の輝きを強くしたが、それでも目を凝らさなければ、間近の少女の顔さえもうよく見えない。

クリフトは次第に不安にかられ、深呼吸しては何度も頬の内側を噛んだ。

アリーナは泣き止まない。

(どうすればいいんだ?)

神の子供、希代の守護魔法の使い手などと大袈裟に仇名されていても、たったひとりの愛しい相手が泣いているのを、どうすることも出来ず見ているしかないなんて。

しかも理由が解らないが、彼女をこんなにも泣かせている原因は、どうやら自分のようなのだ。

(どうすれば)

アリーナの濡れた睫毛。

悲しげに開かれた桜色の唇。

瞬きするたび、新たな涙が大きな瞳からこぼれ落ち、震える少女の肩を見ているだけで、クリフトの胸は張り裂けそうに痛んだ。

「泣かないで下さい」

必死に言う自分の声も風に吹き飛ぶほど頼りなく、今にも泣き出してしまいそうだ。

「どんなことでもします。なんでも言うことを聞きますから、どうかもう泣かないで下さい、アリーナ様……!」

「じゃあ他に、好きな人なんて作らないでよ」

顔じゅう涙で濡らしながらアリーナが叫んだ言葉に、クリフトは思わず瞬きも、呼吸すらも忘れた。


「お願いだから、わたし以外の人を好きになんてならないで……!」



まるで果実が樹木から落ちるように、前触れもなく放たれたその言葉。

クリフトの喉が鳴った。

心臓が脈打ち、身体が金縛りにあったように動かない。

ただ声にならない声だけが、目に見えぬ何かに突き動かされるように、伝えなければと無意識に言葉を押し出していた。


「あ……貴方以外の人を好きになど、なるはずがありません。


わたしがお慕いしているのはアリーナ様、ただひとりだけです」


その瞬間、アリーナの体がびくりと震えた。

クリフトはかっと顔を赤らめた。

(言ってしまった)

ずっとずっと言いたくても言えなかった言葉を、まさかこんな状況で今。

あまりに熱くなり過ぎた血管は、膨れ上がってほとんど破裂しかけ、暴れ狂う心臓が喉から飛び出してしまいそうだ。

「なんて言ったの」

アリーナは俯いたまま、こちらを見ないようにして言った。

「もう一度、言って」

「貴方が好きです」

クリフトは苦しげに繰り返した。

必死で喉から搾り出す声はかすれ、うわずっていて、服も靴も泥だらけで、地面に膝を着いたまま。

十年以上もの永い時を隔てて、ようやく想いを告げるにしては、あまりに不格好で情けない告白の瞬間だと知りながら、クリフトにはもう、言葉を選ぶことなど出来なかった。

「わたしが好きなのは幼い頃からたった一人、貴方だけです。

他には誰ひとり、そのような想いを抱いたことはありません。アリーナ様」

名前を呼ばれ、彼女はようやく濡れた顔を上げた。

まるで森からはぐれた小鹿のように、透明な悲しみに浸された薄茶色の瞳。

(こんなに泣いて)

クリフトの胸がずきりと痛んだ。

どうして彼女が泣いているのか、本当はまだよく解らない。

だが彼女を悲しませているのが自分なのかと確かめることは、先程の彼女の言葉の意味を、はっきりと確かめることにほかならない。

クリフトはほとんど怯えながら震える手を伸ばして、アリーナの頬におずおずと触れた。

アリーナはもう抗わなかった。

「お前は、わたしが好きなの」

「はい」

「いつから?」

「初めてお会いした、九歳の頃からです」

「ずっと?」

「はい、ずっと」

「他の誰かを好きになったことは」

「ありません」

「じゃあこの世に生まれて、クリフトはわたししか好きになったことがないって言うの」

「そうです」

「一緒に歌を歌ったり、二人で森へ出掛けた小さな子供の頃も、お前はずっとわたしのことを好きだと思っていたの?」

「はい」

クリフトの頬がこれ以上ないほど、真っ赤に染まった。

「ずっと好きでした」

「そう……」

アリーナは頼りなげに頷いた。

涙に濡れた頬に喜びはなく、捨てられた子供のような瞳が伏せられると、再び泣き出すのを必死でこらえるように、声を震わせながら言う。

「なんて馬鹿なんだろう。それならもっと早く、気付いていればよかった。

そうすればわたしは、クリフトを失わずにすんだかもしれないのに」

「え?」

「そんなに想ってくれていたのに、わたしがどうしようもなく馬鹿で鈍感だから、お前は愛想をつかして、優しくて美しいミネアに惹かれるようになったのね」

茫然とするクリフトの手を取り、一回り小さな自分の手を重ねて、同じように刻まれた傷跡を見つめる。

アリーナはこらえきれなくなったように、真珠のような涙をぽろぽろとこぼして、またひとしきり泣いた。
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