あの日出会ったあの勇者



身体が突然言うことを聞かなくなったように、勝手に小刻みに震えだす。

ライの様子がおかしいのに気づいた緑の目の若者は、だがとくに何も言おうとはせず、ライの視線の先にいるヴィエナという痩せた女性を見た。

「あれ、母さんだ。俺の」

自分で言っているのに、他人の言葉を聞いているみたいだ。

ライは笑い出したいような気持ちになった。初めて来たばかりの、こんな薄灰色の街で、すぐそこに母親がいるということにまるで実感が湧かない。

だってついさっき、怒鳴り声をあげて外へ飛び出した時、母さんはまだ家にいた。

土砂降りの雨の中、正体不明の若者と出会った。飯を食べて風呂に入り、彼に連れられて生まれて初めての王城にも行った。不思議な魔法だって目の当たりにした。きっとこれから何年経っても記憶に残るであろう、些細だけどとても奇妙な冒険譚。

でも、俺がそんな体験をしている間も、母さんはいつものように支度をし、傘をさして、この雨降りのなかここまで歩いて来ていたんだ。

一番街までの道は坂が多い。きっと、靴も服も汚れただろう。それになんだよ、あの自信のなさそうな顔。家じゃ厳しくて、しょっちゅう俺たちに眉を吊り上げてるのに、あんな心もとなさげな母さんは見たことがない。

目にすることで、思い知った。母さんには母さんの時間が流れているということ。

例え自分と共にいることが出来なくとも、母さんはその間、この世界から消えてしまうわけじゃない。 閉じたとたん表紙の向こうに隠れてしまって、頁を開いたら都合よくこちら側へまた戻ってくる、絵本の中の登場人物じゃない。

生きて、時を過ごしている。俺と一緒にいない間、彼女には彼女の持つ時間が着実に毎日を刻んでいるのだ。

今までライが見ることもなかった、そしてこれからもきっと見ることはないその別々の時間軸の中で、彼女は懸命に働いている。

「あんな大きな椅子、ふたつも持てるわけないじゃないか」

ライは呟いた。

「母さん、口ばっかりで、身体のほうはてんでからっきしなんだ。家じゃ洗濯かごひとつ抱えるのもふうふう言ってる。

だから力仕事はいつも、エレック兄ちゃんと俺とで手伝ってあげるんだぜ」

「そうか」

緑の目の若者はなにを思うのか、眩しげに瞳を細めるようにしてライの母親を見つめた。

「確かに、あまり丈夫じゃなさそうに見える」

「もともと、飯もそんなに食べないんだ。疲れてると余計に入らなくなるんだって、最近は晩ごはんも一緒に食べてくれなくて、だから痩せて……。

お、俺は」

言葉が詰まった。

「スープ一皿飲んだらすぐにテーブルから離れて、兄ちゃんの絵の勉強につきっきりになる母さんが嫌だった。

俺が話しかけても、宿題は終わったの、明日の学校の準備をしなさい、忘れ物をしちゃ駄目よ。いつもそれしか答えてくれない。

どうして俺とはゆっくり飯も食べてくれないんだ。兄ちゃんのことが大事で俺はそうじゃないから、一緒にいるのもめんどくさいんだって思ってた。

……けど」

詰まった言葉を、あふれだした涙が後押しした。

「あんなに疲れてちゃ、飯も食いたくなくなるよな。

こんな遠くまで毎日歩いて来て、一生懸命働いてるのにぐずだなんて言われて、体も心もくたくたになって、帰り道、今度は兄ちゃんを絵の学校まで迎えに行って、それからやっと五番街の家まで帰る。

俺、母さんにお帰りなさいもお疲れ様も、一度だって言わなかったもん。なんでいつもこんなに帰りが遅いんだよ、のろのろしてんなよ!って怒ってばかりだった。

やっとうちに帰って来てくれて嬉しいはずなのに、どうしてだか目の前に母さんが現れると、今度は腹が立って腹が立って仕方なくなるんだ。

だから、今日だって……」

馬鹿野郎って言って、飛びだした。

でもどうして?

母さんがぐずって言われてるのを見るだけで、こんなにも胸が痛くなるのに、どうして俺は同じくらいひどい言葉を簡単に浴びせて、それでもなにも思わないでいられるの?
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