キスの熱
「ヤァーッ!!」
およそ一国の姫君とはとても思えぬ、獣のようなすさまじい瞬発力で懐に入り込み、目にも止まらぬ素早さで次々に拳を突き出す。
鉛のように硬い怪物の腹に、何度も拳を叩き込み、呻いた瞬間を見逃さず、身をねじりざま横っ面を思い切り蹴り飛ばした。
鉄球魔神の巨大な体が激しく吹っ飛び、岩山に轟音と共に激突した。
鉄球がめり込み、壁のような岩が音を立てて粉々に崩れ落ちる。
「なーんだ、思ったよりたいしたことないじゃない」
風車のように空中で旋回して、アリーナは軽やかに着地した。
「早く起き上がりなさい。まだ終わりには早過ぎるわよ!」
その言葉を合図に、崩れた岩をガラガラと弾き飛ばして、鉄球魔神が激しくおめきながら、跳ね飛んで再び立ち上がった。
怒りで真っ赤に染まった目からは、先程までの知性は跡形もなく消え、狂気で血走っている。
「そうこなくちゃ」
アリーナはにっこりと笑い、おどけるように片目をつぶってみせた。
「せっかくこうしてひとりきりになったことだし、どうせならめちゃくちゃに大暴れしてみたいわ。
このままサントハイムに帰らず、一匹狼の女賞金稼ぎになるなんてのも、いいかも」
怒り狂った怪物が、くわっと眦を開き、再び地鳴りを響かせながら襲い掛かって来る。
アリーナは不敵に微笑んだまま、不思議なほど冷静な心でそれを見つめていた。
怪物が振り上げた鎖から巨大な鉄の球が弧を描き、こちらめがけて恐ろしい勢いで飛んぶ。
(来る!)
(……姫様、右!)
武術の訓練を始めてから、早十年近く。
深く体に染み込んだ動きが悠々と敵の攻撃をかわし、上空からもう一度、閃光のような素早さで強烈な蹴りを撃つ。
(姫様、着地は後ろです)
半回転して怪物の背後にしゃがみ込み、反動で再び高々と跳ね上がる。
(姫様、上から頭を!)
(……?!)
いつしか鼓膜の中でこだまする、凜と張り詰めた声。
アリーナは目を見開いた。
(……いる)
体がまるで空気と溶け合ったような、奇妙に心地よい感覚の中。
考えるというより、野生的な勘で次々に脳裏に浮かぶ戦いの絵図で、自分に常に寄り添うのは、身をていしてアリーナを守る、クリフトの姿。
(わたしはいつも、自分の力だけで戦ってるんだと、そう思ってた)
(でも違う。離れていても……いつも、いるんだ)
(わたしの横に、クリフトが……!)
(姫様、とどめを!)
「解ったわ!」
目に見えぬ姿に叫び返し、アリーナは自らの全体重をかけて、鉄球魔神の頭上から渾身の蹴りを突き下ろした。
振り抜いたと感じた瞬間、ごきんと鈍い音がして、骨ごと頭を砕かれた怪物が、激しい断末魔の絶叫をあげる。
巨躯が操り糸を失ったように、大地に崩れ落ちる。
土ぼこりが吹き上がり、あたり一帯にすさまじい轟音が鳴り響いた。
アリーナは蝶のように空中でひらりと回り、着地した。
「や………」
魔物の最期を見届けると、戦いを終えた高ぶりを抑え切れずに、思わず両腕を振り上げる。
「やったわ!!おととい来なさい!魔神だかなんだか知らないけれど、このわたしに勝とうなんて百年早いのよ!!
ねえ、見たでしょクリフト!今の蹴りの速さ……」
はしゃいで振り返り、はっとして口をつぐむ。
そこには誰もいない。
「……そっか」
アリーナの顔から、なだれ落ちるように笑みが消えた。
晴れやかな笑い声は途端にしぼんで途切れ、意気揚々と振り上げた拳は、すとんと力無く滑り落ちる。
「クリフト、いないんだっけ」
(……馬鹿だな、わたし)
みるみる瞼が熱くなる。
(クリフトはもう、わたしの傍にはいないのに)
(すっかりいつもみたいに、一緒に戦ってるつもりになってた)
だが確かに幻聴ではなく、まるで広げた翼のように自分を護ろうとする力強い想いの存在を、体の中にはっきりと感じた。
(こういうの、きっと妄想狂っていうのね)
再び溢れ出した涙をごしごしと拭うと、アリーナは鼻をすすった。
(いないのに傍にいると思い込むなんて、
振られたショックとはいえ、ずいぶん重症だわ)
(大体、クリフトがいけないのよ。今まで散々わたしにくっついてたくせに、突然冷たく離れていくんだから)
(あんなに一緒にいたら、これから先もずっとそうなんだって、思うに決まってるじゃない)
「……そうよ、クリフトのせいだわ!」
体中に波紋のように広がっていく悲しみを振り切るため、アリーナは腹立たしくてたまらないというように声を張り上げた。
「こんなふうにわたしが、ひとりぼっちになっちゃったのも!
か弱い女の子がたったひとりで、敵と戦わなくちゃいけないのも!
ぜーんぶ、クリフトの奴のせいよ!!」
足下から込み上げる、もどかしい怒り。
なにか思い切り八つ当たりするものはないかと、アリーナは辺りをきょろきょろ見回した。
「……いいもの、見つけた」
つかつかと歩いていき、はっしと片手に鎖を掴んで持ち上げたのは、
鉄球。
巨大な魔物が両手がかりで持っていたその恐るべき鉄の塊を、まだ17歳のサントハイムの王女は、右手ひとつで鎖ごと持ち上げ、怒鳴り声と共に空中で、ぶうんと大きく振り回した。
「わたしをひとりぼっちにするなんて、ずっと一緒にいてくれないなんて……、
わ、わたしのことを、好きになってくれないなんて……、
クリフトの……クリフトの、
馬鹿ぁぁぁーーっ!!!」
草むらに向け反動をつけて、巨大な鉄の塊を思いきり放り投げる。
すると誰もいないはずのそこから突然、「うわああ!」という仰天した叫び声が聞こえた。
アリーナは唖然として口を開けた。
「……な……」
がさがさと草の群れが揺れ、左右に割れる。
現れたのは、暗がりでもはっきりと解る蒼い目と、萌黄色の法衣に身を包んだすんなりと背の高い姿。
「……な、なにやってるんですか、姫様」
ようやく出会えたクリフトとアリーナは、互いに言葉もなく、その場に立ち尽くして数秒間、呆然と見つめ合った。