キスの熱
雨上がりの夜は、草の群れもいつも以上に鬱蒼と膨らみ、気をつけて歩かないと、水気のある土にすぐに足をとられそうになる。
(あーあ……)
革のブーツの中まですっかり湿り気で覆われ、アリーナは立ち止まって悲しげにため息をついた。
(これから、どうしよう)
後先考えずにこうして逃げ出して来たものの、サントハイムに戻るにしても、船も持たず馬車もない独り旅で、一体何十日かかることだろう。
(地面がこんなに濡れてては野宿も出来ないし、大体わたし、宿に泊まるお金も持っていないわ)
仲間達との旅でも、それ以前にサントハイムから腕試しの旅に出た時も、いつも金品の管理をするのは几帳面なクリフトの役目だった。
(姫様、宿の準備が出来ました。お疲れになったでしょう)
(お寒くはありませんか。このマントを羽織ると、少しは温かくなります)
(香草を煮たお茶が入りましたよ。椅子を用意しましたので、ひと休みなさってください)
いつも雛を世話する親鳥のように、かいがいしく自分の面倒を見ていたクリフト。
(こんなに長く旅をしてきたのに、一体どうやったら宿が取れるのか、薬草がひとついくらするのかさえ、今だにわたしは知らない)
このままクリフトと離れてしまい、自分はひとりの自立した人間として、果たしてまともに生きていけるというのだろうか?
(それにサントハイムにも、帰りたくない)
今ひとりで帰れば、父王や侍女のカーラに理由を激しく詰問されるだろうし、そしていずれ、クリフトも旅を終え国に帰って来るだろう。
光り輝くような幸せな微笑みを浮かべた、美しいミネアを傍らに置いて。
(嫌、嫌、嫌っ!!)
アリーナは激しく足を踏み鳴らし、乱暴に頭を振った。
ぎゅっとつぶった瞼の端から、大粒の涙が溢れる。
「嫌だよ……」
泣きべそをかいた時はいつも、あたふたと助けに来てくれたクリフトが、自分以外の誰かのものになってしまう日が、こんなに突然来るなんて。
(さよなら、アリーナ様)
「うえぇ……」
雨を落とした後の青灰色の星空に、アリーナの泣き声が淋しく響き渡った。
その時。
突然背後で騒がしい葉擦れの音がして、大地がずんと震える。
アリーナは目を開け、ぴたりと泣くのを止めた。
しんとした夜の静けさの中に、奇妙に張り詰めた緊張が立ち込め、その音はまるで巨大な打楽器を鳴らすように、ゆっくりと規則的に近づいて来る。
「……クリフト、やっと迎えに来てくれたんだ。それにしてもずいぶん急に、体重が増えたのね……。
なあんて、そんなわけないか」
指先で涙を拭うと、すうと呼吸を整え、革の手袋に包まれた掌を握りこぶしの形に変える。
どうしてだろう。
ぼろぼろに打ちひしがれている時だって、もう二度と立ち上がれないと思うくらい悲しい時だって、
身体の一番深い所に眠る、天性の武術家の血潮が熱い渦となって、心とは全く別の場所で、突風に煽られた炎のようにアリーナを駆り立てる。
深く息を吐き、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、アリーナのゆうに三倍以上はある、岩のような巨大な体躯。
髪を長くたらし、髭をたくわえた人間の男に近い容貌は、ある種の知性すら感じられ、吐き出す息は荒く、今から始まる殺戮の饗宴への残忍な喜びに満ちている。
丸太のように太い腕に握りしめているのは、鎖で繋がれた、恐ろしく大きな凶悪な鉄の球。
(”鉄球魔神”か)
アリーナは軽く舌打ちした。
(一人で相手するには、ちょっときついかな……)
こんな時いつもなら自分には必ず、クリフトの唱えるラリホーやスクルトによる、頼もしい援護があるのだが。
(弱気になっちゃ駄目よ、アリーナ!)
アリーナは唇を噛み締めた。
(これからわたしはひとりで生きて行くんだから、このくらいの事はいくらだってあるはず)
(負けていられないわ!わたしはひとりでも、クリフトに頼らなくても戦えるようにならなくちゃ!)
「残念だけど、わたしは今あまり機嫌が良くないの」
アリーナは腰を落とし、両手を胸の前で構えた。
「こんな夜にうっかり出て来たことを、散歩の時間を間違えたと思って諦めなさい!」
怪物が唸り声をあげて、鉄球を高々と振り上げた瞬間、アリーナは爪先で地を蹴って、身体ごと一気に怪物に向け突っ込んだ。