キスの熱
長雨が止んで、たっぷりと水気を含んだ飴色の大地は、青紫の空にようやく現れた一番星の光を浴びて、嬉しげに輝く。
木々は銀色の月を背にまだ露を湛えた若葉をそっと閉じ、つかの間の眠りの準備に入ろうとしていた。
窓を開けると、透き通るような爽やかな夜風が吹き込んで来る。
勇者と呼ばれる少年は月の眩しさに目を細め、何かに気付いたように空を見上げた。
「瘴気が……消えた」
寝台を振り返ると、眠るミネアの呼吸は穏やかなものに変わり、額に浮かんでいた汗も消えて、褐色の肌には健やかな血の色が戻っている。
少年は小さく安堵の息をつくと、木の壁をこんこんと、指先で軽く叩いた。
「いいぞ。入れ」
途端にどたばたと騒がしい音を立てて、血相を変えたマーニャが部屋の中に駆け込んで来る。
「おい、静かにし……」
「ミネアぁ!ミネア!!あたしよ、マーニャよ!
もう大丈夫なの?!苦しくないの?!ミネアはちゃんと治ったのね?!
ねえ、済ましてないでなんとか言いなさいよ!」
「熱は引いたようだ」
少年はうんざりして言った。
「もうしばらく休んでいれば、徐々に回復する。身体をじかに蝕む病とは違って、消耗したのは精神力だ。
明日にはきっと、普段通りのミネアに戻ってるさ」
「なんなの、それ?アイオアの毒にやられたんじゃないの?病と違うって一体どういう事よ?」
涙目で叫ぶマーニャに、少年は無表情のまま、べっと舌を出してみせた。
「お前なんかに教えねえよ」
「なによ!」
マーニャは眉を吊り上げた。
「言いなさいったら、このクソガキ!!昨日からあたしがどれだけ、ミネアの事を心配したと……!」
「お前みたいにガアガア騒ぐアヒルみたいな奴に傍にいられちゃ、治る病気も治らねえんだ」
「なんですって?あんた、いくらお偉い勇者様だからって、このマーニャさんは容赦しないわよ!
その意地の悪い、曲がりくねった根性を叩き直してあげるわ。表に出なさい!」
「……姉さん……」
その時、小さいがはっきりとした声が、騒々しいやり取りの中に滑り込んだ。
「ほらみろ」
勇者の少年は肩をすくめた。
「起きちまったじゃねーか」
「ミネアぁぁ!!」
マーニャは一切構わず、重たげに身体を起こそうとするミネアに勢いよく飛びついた。
「姉さん……心配かけてごめんね」
「あーん!本当に、本当によかった!
大切なミネアが病気だと、あたしも一緒に死んじゃいそうに弱っちゃったんだからぁ!」
「そうは見えなかったぞ」
「ほら、急に無理はしないで。まだゆっくり寝てていいんだからね、ミネア!」
「お前が起こしたんだろ」
「うるっさいわねえ!」
マーニャは怒鳴った。
「さっきからいちいち!ガキは引っ込んでなさいよ。
今から姉妹水入らずの、愛の抱擁の時間が始まるんだから!」
「勇者様、大変ご迷惑をおかけしました」
ミネアは弱々しく頭を下げた。
「またしてもわたしのせいで、皆さんに足止めを」
少年は珍しく微笑んだ。
「小休止もたまにはいいさ。力を十分に蓄えて出発した方が、戦いも楽になるしな」
ミネアは目を見開き、なんとなく不思議そうに勇者の少年をじっと見つめた。
「何だ」
「あ、いえ」
(なんだか……勇者様を包む気が、穏やかになったように思えるわ)
(いつも漂っていた孤独の気配が和らいで、随分と落ち着いて見える)
それでは思いも寄らず自分の病が、少年と仲間達の絆を深める懸け橋の役目を果たしたのか。
「ゆっくり休め。後のことは、クリフトに任せておけば大丈夫だ」
ミネアははっとした。
「ア、アリーナさんは」
「クリフトの後を追って、墓に行った」
「墓ぁ?」
マーニャが素っ頓狂な声をあげる。
「こんな夜に、なんでお墓なのよ。何度もお参りしてくれるのはありがたいけどさ」
「じゃあ、二人は今一緒に」
「多分な」
「……そうですか」
ミネアは俯いた。
まだ重い倦怠の残る身体に、違う種類の痛みが駆け抜ける。
(アリーナさん……平気かしら)
(わたしはどうして、あんな事を言ってしまったんだろう)
(キスしたの。クリフトさんとわたし)
あの時のアリーナの顔。
まるでこの世界の全てがたった今死に絶えたのだと、聞かされたような表情を浮かべた。
(クリフトさんの身を案じるような振りをして、わたしはただ、アリーナさんに言いたかっただけなんだわ)
(わたしとクリフトさんが、キスしたということを)
(単なる治療だったのに、きっとアリーナさんは誤解したはず)
二人は今頃、喧嘩をしているだろうか?
それともわたしとのことなんて、深い絆で結ばれた二人にとっては取るに足らない事で、いつも通り何も変わらず、仲睦まじく過ごしているのだろうか?
「ミネアさん、お加減はどうですか」
その時、ノックと共に開かれた扉から現れたのは、先程の戦いの疲れもみせず、背筋を伸ばして姿勢よく部屋に入って来た、クリフトの姿だった。