キスの熱



その昔、まだこの旅に赴く以前、白魔法学を享受された師、司教エルレイに言われた言葉がある。

(よく聞け、クリフト。生を司る力を手にしようと思うならば、おのずと死を司る力をも身につけねばならぬ。

サフランの花のような柔らかい心を持ったお前には、その相反する学びはなかなかに辛いものであるだろう。

だがそれはまた、お前にしか出来ぬことなのだ。

”生”を呼び覚ます呪文ザオリク、絶対の”死”を与える呪文ザキ。

そのどちらをも使いこなす資質を持つ者は、おそらく今世界中を探しても、お前しかおらぬ)

(……勿体ないお言葉です)

クリフトは戸惑いながら、深く頭を垂れた。

(ですがわたしごとき若輩に、そのような力があるとはとても思えません)

(生と死はひとつ。螺旋のように連なり、幾重にも重なり合っているもの)

おそらくブライと同じほども歳老いているはずの師は、しゃがれた声を絞り出すようにして、一語一語クリフトに告げた。

(生死を司る力を手にするということは、その力の交錯にも揺さぶられることのない、清く静かな、磨き抜かれた水晶のような精神が必要だということだ。

眉一筋動かさずに死者を蘇らせ、同じ唇で今度は、身体に根を張る命を一刀に断ち切る、滅びの呪文を唱える。


さて、果たしてお前にそれが出来るかな?



心優しき神の子供、クリフトよ)






砕け散った魔物の体液が蒸発する、しゅうしゅうと言う音と、溶けた身体から出る黒くくすぶった煙。

クリフトはその場に膝まづき、厳粛な表情で深い祈りを捧げた。

気休めであることは解っている。

滅びの呪文「ザキ」で生命を絶たれた者は、死の自覚もないまま魂ごと砕かれ、輪廻転生も許されず、永遠に黄泉の世界をさ迷い続けるのだという。

そんな呪文を封印したい、忘れてしまいたいと思いながら、これまでの苦しい戦いのさなか、クリフトは何度かやむにやまれずザキを使った。

自分の唱えた魔法で、まるで生まれることを許されなかったように、粉々に砕け散る魔物たち。

戦いを終えた大地には、屍すら残らない。

悄然と佇むクリフトに、いつも明るい笑顔を向け勇気づけてくれたのは、

(アリーナ様)


(大丈夫よ、クリフト)


空を照らす鮮やかな太陽のような笑顔が、哀しみに陰るクリフトの心に光を与えてくれる。

(神様はちゃんと見ているわ。彼等にその資格があるなら、いつかきっと救いの手は差し延べられるはず。

そしてそんな淋しい魂をもう増やさないように、わたしたちはこれからも戦うの。

お前は間違っていない。どうか信じて、自分が手に入れた力を。その使うべき道を。

そうすればきっとお前は、もっと強くなれる)

(……本当は、違う)

クリフトは目を閉じた。

(自分の手にした力を、信じるためなんかじゃない。

わたしはアリーナ様をお守りしたい、ただそれだけのために強くなりたい)

身の内に潜む、凶暴なほど我儘で勝手な感情の存在には、とうの昔から気付いていた。

日頃どんなに躊躇していても、例えばアリーナを助けるためであれば、おそらく自分は何度でも無抵抗の敵に向けて、冷酷にザキを唱えることが出来るだろう。

(わたしには、神よりも絶対の存在がある)

今まで培って来た善も悪も全ての概念も、ただ一吹きの微笑みで、たやすく覆してしまう存在。

それを知った時から、生死を司る呪文を操る力を持っていることが、無性に怖くなった。

アリーナを守るために、自分はいつか誰かを冷淡にあやめるのかもしれない。

アリーナのためなら、どんな残虐を尽くした魔物であろうと、自分は再び魂を与えるのかもしれない。

神の子供と仇名された自らに根付く、深い業にも似た思いは、クリフトをいつも迷いの中に陥れた。

(善も悪も生も死も越えて、わたしにはアリーナ様が全てだ)

(いつかこの愚かしい感情が、わたし自身を滅ぼすことがあるのだろう)


それでもきっと、この思いはもう心に深く刻み込まれて、命ある限り消えることはないのだから。


クリフトは聖杖を手にして額にかざし、改めてもう一度、呪いを解く呪文シャナクを唱えた。

白木と玉石を使って建てられた、ミネアとマーニャの父親エドガンの墓。

呪文を唱え終えると、まだ新しさを残す墓石全体が、仄かな白い光に包まれる。

やがてその光が霧のように拡散して消えると、クリフトを蝕んでいた痺れと痛みも、徐々に消え失せて行った。

(ミネアさんの呪いも、おそらくこれで解けたはず)

身体の弱い彼女が、ようやく苦しみから解放されたと思うと、クリフトの胸に安堵が込み上げた。

(あとは姉妹お二人を傷つけることなく、犯人にこの罪をどうやって贖わせるかだ……)

辺りに注意を払わず、深く思案を巡らせていたせいか。

それともまだ身体を抜け出したばかりの、悪しき呪いの残滓のせいか。

常日頃なら何よりも真っ先に気付くアリーナの気配に、この時のクリフトは全く気づいていなかった。

リビングデッドと孤軍奮闘して戦う姿も、魔法の力で呪いを解く姿も、少し離れた木陰に隠れるようにして、アリーナはクリフトを見つめていた。

(ほら、やっぱりわたしの助けなんていらないじゃない)

(でもクリフト、背中を怪我してるわ)

(……こんな時も)

悲しみで息が切れ、アリーナは瞼を震わせて涙をこらえた。

(治癒魔法が使えるミネアなら、すぐに傷を癒してあげられる。

獣のように暴れるだけのわたしじゃ、クリフトのなんの助けにもならない)

どうして今まで一分の疑いもなく、永遠にクリフトは自分のものだと信じる事が出来たのだろう。

サントハイム王家の忠実な臣下である彼は、これからもきっとアリーナを命懸けで護衛し続ける。

だが剣を納め、杖を置いた彼の傍らに、自分以外の誰かが寄り添う時が必ずやって来ることに、もっと早く気付くべきだったのだ。

(馬鹿で鈍感な、思い上がったお姫様育ちのアリーナ)

(小さな頃から一緒だからって、これからもずっと一緒にいられるわけじゃない)

(きっぱり諦めなくちゃ。

ミネアと結ばれたクリフトを真っ先に祝福しなくちゃいけないのは、主人であるわたしなんだから)

(笑顔でおめでとうって、言わなくちゃ…)

ばらばらになりそうな心を必死で繋ぎ止めようとして、深く息を吸い込む。

幼い頃からいつも共にあった、空と同じ色の蒼い眼差し。

ちょっと照れ臭そうに首を傾げてはにかむ、彼独特の微笑み。

癇癪を起こした朝も、淋しくて泣いた夜も、いつも必ず傍にいて優しく見守っていてくれた。

(駄目だよ)

気付くと頭で考えるより先に、踵を返してその場を駆け出していた。

(祝福なんて出来ない。諦めるなんて、絶対に出来ない!)

(こんなわたし、もうクリフトと一緒に旅することは出来ないわ……!)




がさがさと言う草擦れの音に、クリフトははっと我に返って振り向いた。

「姫様?」

辺りを見回しても、誰かがいる様子はない。

(……気のせいかな)

杖を腰に差し、衣服についた泥土を軽く払ってから、クリフトはそっと腕を持ち上げ、自らの手の甲を見つめた。

もう十年近くも前の、ずいぶんと薄くなった小さな傷跡。

(姫様の身になにもなくて、本当によかった)

彼女が待っているところへ、早く帰ろう。

たった今そのアリーナが、同じ傷跡を残した手で涙を拭いながら、逃げるようにこの場から去って行った事に気づかず、

クリフトは鈍色に光る墓を背にして、静かに歩き出した。
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