キスの熱
耳にした言葉が頭の中で、見知らぬ呪文のようにいんいんとこだまする。
(キスしたの。クリフトさんとわたし)
(嘘)
(嘘よ……)
アリーナはぴくりとも動かず、目の前のミネアの胸が苦しくてならぬように荒く上下するのを、ぼんやりと見つめていた。
「……でも……誤解しないで、アリ…ナさ……。
そ、それは……、くす……り……の……」
ミネアは顔を歪めて咳込み、喉を押さえて激しく呻いた。
「これ以上は無理だ。どいてやれ」
勇者の少年が床に膝をついたままのアリーナの腕を取り、引っ張り上げる。
「アリーナ?どうした」
「……あ」
アリーナはまばたきを繰り返して、呆然と少年を見つめた。
「なんて言ったんだ?ミネアは」
「……え、ああ」
(キスしたの)
(クリフトさんと、わたし)
「の、呪いの影響を、クリフトも受けているかもしれないんですって。
クリフトは、自己犠牲の心が強いから……」
「そうか」
少年は物問いたげな目でアリーナをじっと見たが、それ以上なにも言わなかった。
「とにかく急がないとな」
「そうね、行って来るわ」
ぎこちなく少年に微笑みかけると、アリーナは扉を開けて廊下に出た。
背中越しにばたんと言う音が響いたとたん、懸命にこらえていた何かが、ぷつりと心の中で弾ける。
震えだした唇から嗚咽がもれ、アリーナはうつむいて頬の内側を噛むと、ぐいと乱暴に腕で頬を拭い、泣いた姿を誰にも見られないように、急いでその場を走り去っていった。
一方、その頃。
エドガンの墓にひとり辿り着いたクリフトは、全身を襲う痺れと戦いながら、周囲を念入りに調べていた。
(思った通りだ。このアイオアの葉は、授粉したばかりで毒気が抜けている)
(墓を包む凶々しい瘴気。やはり病の原因は、ここにかけられた呪いだ)
(だがこれほどの怨みの念が漂っていれば、敏感なミネアさんならすぐに勘付くはずだが……)
墓石の足元を慎重に掻き分け、枯れ葉やちぎれた草をひとつひとつ確かめているうちに、湿った黒い土に混じり、あるものが落ちていることにクリフトは気付いた。
(これは……)
その瞬間、積み重ねて来た疑念が決定的な確信に変わる。
(そういうことだったのか)
(聖なる死者の日を前に、娘達が父親の墓参りに来ることを予測した上で、安らかに眠る者を冒涜する、こんな残酷な罠を仕掛けるとは)
込み上げる怒りを抑え、クリフトは腰に差していた聖杖を抜くと、両手を添えて額の前に振りかざし、聖句「シャナク」を唱え始めた。
(邪悪な呪いよ、神の名の元にここから去れ)
(呪いに囚われた罪なき人間を、その苦しみより解き放て)
祈りが聖杖に力を与え、杖の先から放たれた青い閃光が渦となって、辺り一面を包もうとしたその時、
「!」
クリフトは背中にざわっと鳥肌が立つのを感じて、とっさに杖を地面に突き刺し、前方へ跳ね飛んだ。
ばんと音をたてて杖が土から弾き出される。
たった今クリフトが立っていた地面が、まるで泡立つようにうごめき、小山のように盛り上がる。
(魔物か!)
クリフトは懐から短剣を取り出し、腰を落として油断なく身構えた。
もうもうと吹き上がる土煙。
辺りに泥のような粘質のある液体を撒き散らしながら、地面の中から現れたのは、どろりと溶けかけた、人間の形をした巨大な灰色の身体。
空洞となった片方の眼窩から、黄色い目玉が糸を引いて垂れ下がっている。
外見はまるっきり死体でありながら、腐敗した紫色の唇には、はっきりと邪悪な意志を漂わせ、喉の奥で気味の悪い呻き声をたて、クリフトに向かって一気に飛び掛かって来た。
(リビングデッド!)
クリフトはすかさず身をよじってゾンビの体当たりを避けると、とっさに短剣を振り上げて、敵の足の腱めがけて思い切り突き立てた。
ずぶりとした、刃を飲み込む柔らかい感触。
ダメージを与えた手応えはない。
(くそ……)
呪いが及ぼす痺れで、腕に力が入らない。
突き刺さった剣を引き抜こうと、両手で柄を掴んだ瞬間、クリフトの背中に焼けるような痛みが走った。
リビングデッドの手が、屈み込んだクリフトの背を斜めに引き裂いたのだ。
激しい熱さと痛みが、雷のように脳まで一気に駆け抜ける。クリフトは顔を歪めて地面に膝をついた。
リビングデッドはゆらりと体を揺らし、勝利を確信した不気味な笑みを浮かべて、クリフトの頭を握り潰そうとつかみ掛かって来た。
もう迷っている暇はない。
(あまりやりたくはなかったが……、仕方ない!)
呪いとは違う、生身を直に襲う苦痛が、逆にクリフトの頭を冷静にしていく。
短剣から手を離すとクリフトは力を振り絞って飛びすさり、かろうじてリビングデッドの攻撃をかわした。
地面に転がっていた聖杖を引き寄せ、倒れた姿勢のまま額にかざすと、疾風のような速さで片手で印を切る。
「神の救い届かぬ、さ迷える暗き魂に、闇からの真の消滅をここに……!
滅 び よ!ザ キ !!」
めったに激することのない、穏やかな蒼い瞳がかっと開かれ、瞳孔に強大な魔力を宿した、血のように紅い光が広がる。
クリフトの全身から、赤黒いもやのような精気が立ち昇ると、やがてそれは空中で鋭利な刃の形となり、リビングデッドの体に深々と刺さり、吸収されるかのようにずぶずぶと飲み込まれた。
一瞬何が起こったか解らずに、魔物の動きが静止する。
クリフトは額から杖を離し、膝を払って立ち上がった。
瞳を支配した紅い光は既に消え失せ、いつものように理知的な蒼い色に戻っている。
「すまない」
突如として、石像のように固まってしまった目の前の魔物を、クリフトは痛ましげに見つめた。
「お前には、安らかな眠りを与えられなかった。
黄泉の国で冥府の王より、厳正なる裁きを」
その言葉が合図となったように、突然リビングデッドの体がおかしな形にねじれ、どんと言う凄まじい音を立てて、硝子のように粉々に砕け散った。
ばらばらになった魔物の体が、土に溶けて消えて行くのを見届けるまで、クリフトは哀しげに佇んだまま、その場をじっと動かなかった。