キスの熱
ずきん。
胸が痛む。
彼のきれいな目を見ると、切ないのと同じくらい、自分が取るに足らない存在に思えて。
「お食事はもう、お済みになられましたか」
「ううん、まだ」
濡れた前髪からしずくが落ち、アリーナの顎を伝うと、クリフトは困ったように目を逸らした。
「ミネアの様子はどう?」
「あまり良くありません。もしかしたら、ただのアイオア熱ではないかもしれない。今薬をお飲みになり、休んでいるところです。
それで……申し訳ありませんが、明日の出発は見合わせて頂きたいと、ライアンさん達に」
「ええ、伝えておくわ。無理はいけないものね。
例え時間がかかったとしても、きちんと治さなきゃ」
「アリーナ様は、お体に異変を感じてはおられませんか。
今日はミネアさんとずっと一緒にいらしたのですから、姫様も何かの病に感染していないとも限りません」
「わたしは平気。男みたいに逞しく出来てるもの」
いけないと思いながら、つい口調に刺々しさが混じるのを抑え切れず、アリーナは急いで笑おうとしたが、あまり上手くいったとは言えなかった。
「華奢で繊細なミネアとは違って、わたしは鉄みたいに頑丈なの。
病気になんてならないわ。だからクリフトは気にせず、しっかりミネアを看病してあげて」
「そうはいきません。アリーナ様は丈夫そうに見えて、実は昔からお喉が弱い」
クリフトは真剣な顔つきで言った。
「昔、風邪から喉の腺を腫らして、ひどい熱をお出しになられましたね。
喉の病は常在菌が引き起こすもの。なにかのきっかけでたやすく再発します。
もしよろしければ今のうちに、姫様にも薬を飲んでおいて頂きたいのですが」
「よく覚えてるのね、わたしが熱を出した事なんて」
「覚えていますよ、昨日のことのように」
クリフトは肩をすくめた。
「あれは、姫様が御齢6歳の時です。
魚を釣ろうとして頭から川に落ち、ずぶ濡れになったのも気になさらず魚をわしづかみにして、今度はそのまま森に入ってしまった。
どうしてだか覚えてらっしゃいますか?怪我をしたツグミに、餌をあげたかったんです。
いきなり巣の中に生きた魚を突っ込まれて、驚いたツグミはそれは大暴れしましたよ。
これは、その時の傷です」
差し出された手の甲に、ごく小さな直線状の傷跡を見つけて、アリーナは目をしばたたかせた。
「クリフトが、ツグミに突つかれたの」
「違いますよ。突つかれたのは姫様です。
わたしは姫様を持ち上げる肩車の役でしたから、つんのめった姫様と一緒にその場に転げて、傍のナラの木の枝で手を切ってしまったんです」
「……全然覚えてないわ」
「あの頃の姫様は、毎日が冒険でしたからね」
クリフトは微笑んだ。
「確か姫様の手にも、その時の傷跡が残っているはずです。
王女が体に傷をつけるなど!と、カーラさんに烈火のごとく叱られていましたから。
……ほら、ここ」
ごく自然にアリーナの手を取ると、掌を広げさせ、親指の付け根あたりを指差す。
なめらかな手の温もりに、アリーナは頬に血が昇るのを感じて、急いでうつむいた。
クリフトはそんなアリーナを不思議そうに見つめると、はっとしたように慌てて手を離した。
「す……すいません。ご無礼を働きました」
「……いいわよ、べつに」
鼓動が弾み、耳たぶまでかあっと熱が込み上げる。
でも止まらなかった。
「クリフトなら、いいの。
お前にはいつも、わたしの手を引いていて欲しい。そう思ってるから」
「……アリーナ様」
沈黙が落ちる。
それとも鳴り打つ胸の動悸のせいで、周囲の音さえ聞こえなくなってしまったのだろうか。
今クリフトがどんな顔をしているのかと思うと、恥ずかしくて動くことも出来ず、うつむいたまま強張っていたアリーナは、不意に驚いて顔を上げた。
長身の体がぐらりとよろめき、眉間に皺を寄せたクリフトが、苦しげに息をついて片手をアリーナの肩にかけたからだった。
「ど、どうしたの、クリフト?」
「……なんでもありません。たびたびご無礼を」
急いで手を離すと、クリフトはすぐに元通り姿勢よく立ち、目を細めて笑った。
「敬愛するアリーナ様に、恐れ多くも手を引いて欲しいとおっしゃって頂いたので、あまりに嬉しくて、つい目眩がしてしまいました」
「そっ、それは、だから……」
「お食事をなさって下さい。それから薬をお飲みになって下さいね。
アリーナ様は、どうかいつもお健やかに。わたしからのお願いです」
微笑むとくるりと踵を返し、クリフトはアリーナをその場に残したまま、足早に宿へと戻って行ってしまった。
(……変なの)
胸が泡立つような、奇妙な不安がこみ上げる。
何があっても主君である自分を置き去りにして、さっさとその場を去って行くようなクリフトではなかった。
(敬愛するアリーナ様、か)
説明出来ない感情にとらわれて行く心を、なんとか明るい色に戻そうと、アリーナはわざと跳びはねるように歩きながら、
「ごーはん、ごはん。お願い通り健やかでいなくちゃね、わたしは」
言い聞かせるようにつぶやいて、子供のように元気よく宿の扉を押し開いた。
その頃、宿では洗面台の銀の盥の前でクリフトが歯を食いしばり、胸を押さえてうずくまっていた。
(どうしたんだ、一体……!)
肺から心の臓へ繋がる左胸が、焼けつくようにびりびり痺れ、無理に息を吸おうとすると、鋭利な刃物で刺されているかのように痛む。
(移ったか?まさか……だとすれば、これはただの病ではない)
ミントスで患い、十分な予防治療を受けた自分でさえ、もう病が体内に侵入しているのだとすれば。
(ミネアさんはもっと酷くなるだろう。その前に、原因を突き止めなければ)
(アリーナ様を病気にさせるわけにはいかない)
(今日は万聖節……。アイオアの葉、墓、病)
キーワードの羅列が、クリフトの中でひとつの答えを導き出す。
(行こう)
痛む胸を押さえながら、クリフトはよろよろと立ち上がり、裏口の扉を開け、仲間の誰にも気づかれぬままそっと宿を出て行った。