キスの熱
「ん?上からなーんか聞こえるぅ?鳥の声かしらねえ」
樹齢百年以上の桧をくり抜いた、のどかなコーミズ村の宿の風呂とは思えぬほど豪奢な浴槽。
顎までたっぷり身を浸しながら、マーニャが首をかしげた。
「この雨だもの、鳥は鳴かないわよ」
「そうかぁ、じゃあさてはクリフトのやつ!
あたしがあれほど忠告しといたっていうのに、ミネアのしどけない寝姿にたまらずちょっかいを出しちゃったって言うわけなのね!
あのナイトドレス、かわいいものね。あたしの一番のお気に入りなんだから、間違いないわ。うふふ」
「なあに、なにか言った、マーニャ?」
「なんでもなーい」
マーニャは両手でばしゃんと湯を掻き分けると、片目をつぶった。
「他愛ないいたずらを許してね、アリーナちゃん。
まさかあたしもこのくらいのことで、お硬いクリフトの心が揺らぐなんて思っちゃいないわ。
でも真面目一辺倒で生きて来たあたしの妹にも、ちょっとくらいときめきを感じる瞬間があってもいいと思うのよ。
ほら、あたしたちってあんな形で父さんを亡くしちゃったでしょ。そのせいでミネアって、どうもファザコンの気があるのよね。
オーリンもそうだけど、面倒見がよくて優しい年上の男の人にあの子はぐっと来ちゃうの。
だからクリフトに対しても、恋って言うより憧れの方が強いんじゃないかしら。
まあオーリンとは違ってクリフトはハンサムだから、これからあの子の気持ちが一体どう転んじゃうのかは、あたしにも解らないけど。
でも心配する必要ないわよ。ミネアにはかわいそうだけど、堅物で思い込みの激しいクリフトは、何があってもアリーナちゃんしか見えやしないんだろうから!」
「な、なに言ってるの?」
アリーナは困惑したように首を振った。
「クリフトはただ、サントハイム王家の忠実な家臣としてわたしに仕えてくれてるだけよ」
「あら、ほんとのほんとーに、そう思ってるって言うのお?」
うぶな少女の胸の内に隠した本心を、引っ張り出してやりたい。
そんな意地悪な気持ちにかられて、マーニャは両手をお椀のように丸め、熱い湯をすくうと、アリーナの顔に向けて勢いよくかけた。
「きゃっ、なにするのよ!」
「クリフトの気持ちに全く気付いてやしないなんて、言わせないわよ。
アリーナちゃん、人は正直じゃなくちゃいけないわ。
どんなに深く想っていても、伝えなきゃなにもなかったことと同じになるんだから。
遠慮したりためらってばかりだと、いつかミネアに出し抜かれちゃうかもしれないわよ!
日頃大人しいぶん、思い詰めると何するかわかんない所があるからね、あの娘は」
「ク、クリフトとミネアがどうなろうと、わたしにはなんの関係もないことだわ」
むきになったようにマーニャを睨むと、アリーナは湯から上がり、浴室を出て行ってしまった。
「……まーったく、素直じゃないんだからぁ」
マーニャは肩をすくめ、鼻先が浸るまで深々と湯に身を沈めた。
波を立てて揺らぐ湯の中で、桜色の唇がにんまりと微笑む。
「知らないわよーだ。どうなっても」
(なによ、マーニャったら)
アリーナはまだ濡れた髪をなびかせ、小走りに宿の外に出た。
(クリフトはただ、ミネアの看病をしているだけ。それだけだわ。
相手が誰であっても、クリフトは分け隔てなく無心に尽くす。彼がそういう人なのを、わたしは子供の時から知ってるもの)
なのになぜあんなふうにからかわれただけで、こんなにも胸がざわついてしまうのだろう。
長かった雨はようやく止み、灰色の雲の隙間から青紫の空が覗いて、一日の終わりを告げようとしていた。
(クリフトの気持ちに全く気付いていないなんて、言わせないわよ)
初めて出会ったのは、洗礼を受けるために教会を訪れた四歳の時。
今でも鮮明に覚えている。
顔を合わせた瞬間、雷に打たれたような訳の解らない衝撃を受けて、慌ててブライの背中に隠れ、照れ隠しに思い切りあかんべをしてみせたことも。
瑠璃のように蒼い目をした、背ばかり高い痩せた少年は、誰かのお下がりらしいぶかぶかの法衣を着て、アリーナを瞳にとらえたとたん顔を真っ赤にし、何故か泣きだしそうな表情を浮かべた。
「……て、天使のようなアリーナ王女殿下に、神のご加護を」
その瞬間、幼い心で気づいた。
(この人はわたしを、天使だと思ったんだ)
それから毎日のように教会を訪れては、兄妹のように仲良く一緒に過ごし、時に退屈な日々に彩りを添える小さな冒険や悪戯に、生真面目な彼を巻き込んでは困らせた。
大切な宝物を見つめるようなクリフトのまなざしに、愛されている実感と、胸が弾む喜びをずっと感じていたのは確かなはずなのに。
何故かこの旅に出てから、その自信はまるで太陽の前の淡雪のように、アリーナの中でいともはかなく消え失せて行った。
(ミネアとマーニャ……あんな綺麗で魅力的なふたりに比べたら、わたしなんてまるで、孔雀の前のムクドリだわ)
決して太くはないが、17の少女にしては硬すぎる、引き締まった筋肉質の腕や足。
戦う事が大好きで、誰よりも俊敏に動くこの身体を、誇りに思っていた。
なのに今自分を包んでいるのは、悲しいほどちっぽけな劣等感だ。
(ああ、元気を出さなきゃ。
こんなの全然わたしらしくないよ、”おてんば姫”!)
「アリーナ様?」
その時背後から、風のように涼やかな声が響いた。
声の正体に気づいたアリーナは、びくりと身を震わせ、思わず聞こえなかったふりをして、すたすたと前へ歩き出した。
(やだ、なにやってるんだろう、わたし)
「アリーナ様……姫様!」
足音がついて来る。
こうして後ろを振り向かずやみくもに進んでも、彼は必ずわがままなわたしの後を追いかけて、ついて来てくれる。
(だからわたしは彼のことが、こんなにも好きなんだ)
やがて足を止め、小さく息を吸い込んで、アリーナはゆっくりと振り返った。
「クリフト」
「アリーナ様」
足早に落ちて来る夜闇を払う、鮮やかな夕陽のような表情を浮かべて、クリフトはアリーナを見つめると首を傾けて会釈し、嬉しそうに微笑んだ。