あの日出会ったあの勇者



「も、もう、着いたのか?」

ライは信じられないというように、ぽかんと周囲を見回した。

「ここが……、町工場地区」

かぶりをどこに振っても四方八方に立ち並ぶ、灰色の空を切り取るようなのこぎり屋根。

路地に面した街道一帯に、平屋造りの古めかしい工場がひしめいている。柱を使わず建築できるよう設計された独特のギザギザ型屋根と、鉄を伸ばした波板を張りつけた壁。どちらも風雨にさらされて、錆びだらけの赤銅色に染まっている。

どの工場もおしなべて老朽化し、長年の稼働で建物そのものにしみついた硫黄や硝酸のすえた匂いを漂わせていた。鋸の刃型の起伏を描く屋根の真ん中から、まるで太陽を求める糸杉の木のような、細長い煙突がいくつも空へと向かって伸びている。

一番街はブランカ城下街の整備事業に取り組んでいる当代国王の御代にあっても、唯一手つかずのまま、百年以上前の工業繁忙期の風景が残されている街だ。

といってもそれは、歴史的な価値のある景観を守るためなどでは毛頭ない。今でこそ縫製工場、アイロン工場等の安全な作業場がほとんどだが、百年前までは現在使用を禁止されている有害薬品や、戦争用の砲弾を専門に製造している工場があまたあった。

当時、工場から無尽蔵に垂れ流された汚染水は一番街の土壌を汚し、今も路地裏の排水溝には有毒な水銀の混じった泥水が、行き場を失って大量に溜まっている。洗浄しても洗浄しても、雨が降るたび土地に浸み込んだ水銀が溶けだして来るのできりがない。

いっときは一番街の復興にやっきになっていたブランカ王家もついにさじを投げ、ある時その政治的方向性を換えた。一番街の住民を退去させると、国中の工場を一律して集合化し、国指定の工場地区とすることにしたのだ。

しかしやがて戦乱の世は去り、世界には凶暴な魔族が跋扈(ばっこ)するようになった。ブランカ王家は隣接する国家、また公領土着の部族全てと和平条約を結んだ。もはや、同じ人間同士で争っている場合ではなくなったのである。

戦争は起こらなくなった。必然的に、武器弾薬を製造する工場はすたれた。

ブランカ一番街の工場地区はかつての隆盛を失い、今やエンドールへ輸出する衣料品や日用品をその主なる生産目的とし、今日も煙突から白い蒸気を吹き出させている。

「……」

初めて目にする工場の群れに圧倒され、ライは言葉を失くしていたが、それは緑の目の若者も同じようだった。

表情は一見したところ変わらないが、エメラルド色の瞳は抑えきれぬ好奇心に子供のように輝いている。通常の街では見ることの出来ない、異質な形の建造物に食いいるように見入る様子は、もしも彼が絵描きなら今にもスケッチを始めそうなほどだった。

「おや、やっと雨がやんだよ!昼休憩を取ろうや」

ふいに向かって二番目の工場から物音がすると、壁と同じ波板で出来た扉ががちゃんと開く。

中から生成りの手ぬぐいを無造作に髪に巻きつけた、丸々と大柄な女が出てきた。

「ヴィエナ、ヴィエナ!」

「はいっ」

「さっさと来な。何をちんたらしてるのさ。早く皆の分のテーブルと椅子を並べて、食事の準備に取りかかるんだ。休憩時間は限られてるんだよ」

「わ……、わかりました」

か細い声で返事し、開いた扉からふらつくように出て来た痩せた女を見て、ライはあやうく叫びそうになるところだった。

慌てて口を手で押さえると、緑の目をした若者の腕を引っ張る。怪訝そうに見下ろす若者に目配せし、「隠れるんだ。もっとこっちへ!」と小声で言った。

若者はライを見つめ、黙って頷くと、目の前の建物に立てかけられた長い木材に身を寄せ、ちょうど陰になる部分にライをぐいと押し込んでやった。

地面にはいつくばるようにしゃがみ込み、 そっと顔だけ出して前方を窺う。

心臓がばくばくと音を立てて暴れ始める。

ライは唇を噛んだ。

「ほら、なにをのろのろやってるんだい。こんな木の椅子、一度にふたつくらい簡単に持てるだろう」

「は……、はい」

痩せて青ざめた女は、言われた通り両脇にふたつの椅子を抱え上げようとしたが、ものの数歩で重さに耐えかねたようによろめき、地面にぺたんと尻をついてしまった。

大柄な女はため息をついた。

「まったく……。ヴィエナ、あんたって女は、なにをやらせても人の百倍ぐずだねえ」

「す、すいません」

「いいかい、こんなことを命令するからって、なにもあたしがあんたに意地悪してるだなんて思わないでおくれよ。

昼食準備は三点鐘までの針仕事の仕上げ量が一番少なかった人間の役目だって、昔から決まってるんだ。そしてこのひと月、だんとつで遅いのはあんたなんだよ。

うちは出来高制じゃない。仕事が早い者も遅い者も同じ給金を貰うんだから、だったらその分どこかで帳尻を合わせてもらわないと、頑張ってる人間が割に合わないだろう」

「わかっています」

ヴィエナと呼ばれた女は弱々しくほほえんだ。

「いつもご迷惑ばかりおかけして、申しわけなく思っていますわ」

「なにごとも向き不向きがあるからねえ。あんたが決してわざと手抜きをしてるわけじゃないのは、あたしにもわかってるよ」

大柄な女は口調をいくぶんやわらげた。

「ねえヴィエナ、一度聞きたいと思ってたんだけど……あんた、もしかして目が悪いのじゃないかい」

ヴィエナはさっと顔をこわばらせた。

「……いえ、そんなことは。どうしてそんなふうに思われるのですか」

「神経質なあんたにしちゃ、ここのところの縫い目の歪み方はあきらかにおかしいからね。それに針に糸を通すだけにもずいぶん苦労してる。弱視が進んでるんじゃないのかい。

早いとこ、大きな医療院で診てもらったほうがいい。目の病はいったん進行し始めると、後戻りがきかないよ。トンネルを越えたエンドールなら、いい薬もあるだろう。近々休暇を取って……」

「そんなことは出来ません」

かよわかったヴィエナの声音が、不意に厳しくなった。

「どんな理由があろうと、たとえいっときでも仕事を休むわけには行きません。わたしの目なんてどうでもいいことです。いざとなったら牛乳瓶の底みたいな、分厚い矯正眼鏡をかければ済むことですわ。

わたしには、息子がふたりいるんです。兄のエレックはテンペラ画を習っていますし、弟のライアンはまだ初等学校の三年生です。今度、家庭教師も雇う予定です。学費が必要なんです。

あのふたりにしっかりと教育を受けさせ、どこに出しても恥ずかしくない立派な人間に育て上げることが、亡くなった主人との約束です。

だから、少しでも仕事を中断するわけには行きません」

ヴィエナは立ち上がり、ふたたび椅子を両脇にふたつ抱えると、テーブルに沿ってひとつずつ並べた。

柱の陰に身をひそめたライの身体が、小さく震え始めた。
22/30ページ
スキ