キスの熱
熱い。
血管の内側を暴力的な痛みが襲い、細菌が身体中の水分を奪い尽くしていく。
(苦しい)
(わたし、死んでしまうのかしら)
(姉さんをひとり遺して行くわけにはいかない……それにまだ、満足に勇者様のお役にも立てていないのに)
病弱さゆえ、自分が旅の仲間のお荷物になっている事は、ちゃんと解っていた。
だが、自分にしか出来ないこともある。
吹雪や炎を操る魔物との戦いでは、ミネアが唱えるフバーハが必要不可欠だったし、山や海を越え地図にも載らぬ地を旅する時、彼女の水晶を使っての方角視は、非常に重要な役割を果たしていた。
時に魔物の弱点を読み、仕掛けられた罠を事前に知る。
仲間の不調をいち早く感知し、タロットで秘めた心の悩みすら言い当てる。
だが神が彼女に与えた霊能力の致命的な弱点は、その不思議な第六感が、ミネア自身に起こることだけにはなにひとつ力を発揮しないということなのだった。
水晶を使った予知の後は、必ず激しい頭痛と目眩がやって来る。
青ざめてその場にうずくまるミネアを助け起こすのは、いつだってしんがりを務めるクリフトだった。
頻繁に休憩を取らざるを得ないミネアを、武人気質のライアンが快く思わず、ついに「ミネア殿はこの旅に向いていないのではないか」という物議まで醸してしまう事態になった時も、真っ先に反論し、いかに彼女がこれまで仲間のため身を削って努めて来たか。
どんな時も互いに理解しあい、配慮しながら旅を続ける心が大事なのではないかと、真摯な瞳で皆に熱弁をふるってくれたのは、やはりクリフトだった。
「神が貴女をお選びになった、ただそれだけのことです。なにも気に病む必要などありません。
むしろ皆と同じ速度で旅を続けながら、霊能者として常人にない力を消耗せねばならぬという事を、わたしは気の毒に思う」
ちゃんと解っている。
彼がわたしを庇ってくれるのは、共に神の声を聞く使いとして、他の皆よりほんの少しだけ解り合う事が出来るから。
(ただ、それだけのこと)
それでも彼が優しく微笑みかけてくれるたび、同じように神に寄り添う立場でよかったと、不謹慎にも胸が甘くうずいた。
(姉さんの冗談を鵜呑みにするわけではないけれど、こうして寝込んでいる間だけは、クリフトさんがそばにいてくれる)
それ以上は決して望まないから、どうか許してほしい……。
悲しげにこちらを見つめる鳶色の瞳の少女の幻影に、ミネアは手を差し延べようとした。
(ごめんなさい、アリーナさん)
視界に暗闇が押し寄せる。
自分など到底太刀打ち出来ぬほど、長い間クリフトを想い続けて来たはずの彼女を傷つけている、これは罰なのかもしれない。
全身を熱と痛みが蝕み、思考が砂のようになだれ落ちて消えて行こうとしたその時、柔らくてなめらかな何かが、渇いたミネアの唇にそっと覆いかぶさった。
(え……?)
戸惑う間もなく、唇の隙間から喉にざらついた液体が流れ込み、次に痺れるような強烈な苦さが、鼻の奥まで突き抜ける。
「う、う……っ」
(苦い……!)
一瞬ののち、唇に重なった幻のように温かな感触は、すぐに離れた。
口に広がるあまりの苦味に咳込もうとしたが、誰かの指がそうさせないように顎を持ち上げる。
吐き出す事が出来なくて、顔を歪めながらごくんと機械的に飲み込むと、喉が動いたことを確認したのか、すぐ近くからほうっと安堵のため息が聞こえた。
(白檀の香り)
(この香りは……)
おそらく薬だったのだろう、鼻に残る青臭い匂いの中に、覚えのあるほのかに甘い香りがかすめる。
自分を助けようとしてくれているのは誰なのかを確かめたくて、意識の端を掴むように、ミネアは重く震える瞼を開いた。
視界のすぐ真上に、若い神官の青年の引き締まった顔と、海と同じ色をした誠実なまなざしがあった。
「よかった、気がつきましたか」
「……クリフトさん」
蒼い目がほっとしたように和らいだのを認めたとたん、先程の感触が一体なんであったのかに気づく。
(もしかして……)
ミネアは震える指で、まだ苦さの残る自分の唇に恐る恐る触れた。
「わ、わた……し……」
「誇り高く高潔な女性に無礼を働いた罪は、十分に承知しています」
クリフトは立ち上がり、真剣な表情で深く頭を下げた。
「申し訳ありません。どのような叱責も受ける覚悟です。
ですがわたしは、ミネアさんになんとかして薬を飲んで頂きたかった。
それ以上のみだりがわしい邪念など、神に誓って抱いてはおりません。
どうかこれからも旅を共にする仲間として、信じて頂けると嬉しいのですが」
熱のせいではない強い目眩に襲われて、ミネアは思わず両手で顔を覆った。
(わ、わたし、わたし……!)
唇が急に発火したような熱を帯びはじめ、羞恥のあまり全身が震え出すようだった。
(わたし、クリフトさんと……!)
「ミネアさん、お許し下さい」
クリフトは表情を変えずに繰り返した。
「信じてもらえないかもしれませんが、どうかお耳に入れて頂きたいのです。
例えもしこの病床に着いておられたのが、勇者様であろうとブライ様であろうと、わたしは必要とあらば必ず誰に対しても、同じ行為を施したことでしょう。
宮廷仕えの医師のように、薬管を持っていればよいのですが、生憎貧しい教会にそのような設備は整っていません。
意識を失い、薬を飲み込めない患者達には、しばしば同じように唇を使うことがありました。
ですがご安心下さい。自分自身を守る為はもちろん、患者の更なる感染を防ぐため、医療に従事する聖職者は充分に自身の洗浄を行っています。
わたしにはアイオア熱の免疫もあるし、以前ミントスで床に臥した際、感染症予防の薬も飲みました。
だからどうか不安にならず、薬の効果を期待してゆっくり休んで欲しいのです。
ミネアさんにとっては不快な繰り言かもしれませんが、決して……」
「もう止めて!」
不意に遮られ、クリフトは口をつぐんだ。
ミネアは頬を真っ赤にしたまま、クリフトの方を見ないようにして言った。
「どうか……何も気になさらないで下さい。わたしなら大丈夫ですから」
「ミネアさん」
クリフトはもう一度静かに頭を下げた。
「申し訳ありません」
彼はきっと、純真なミネアを傷つけてしまったのだと、やるせない罪悪感を感じているのだろう。
でもそうじゃない。
例え薬を飲ませるためであっても、自分とクリフトが唇を重ねたのだと言う驚きと、心臓が裏返しになってしまうような恥ずかしさは、
まるで医師そのもののように、深刻な顔で謝罪するクリフトを見ているうち、ミネアの胸の中で泡が溶けるように、あっという間に消え失せていった。
(こんなの、キスとは言えない)
(クリフトさんにとってはなんの意味もない、単なる治療のひとつでしかないんだもの)
安心するはずなのに、どこかでそれをひどく悲しんでいる自分がいる。
込み上げる感情を抑え切れず、ミネアは思わず口にしていた。
「病気を治すためなら……、だ、誰にでも行うことなのだと、おっしゃいましたね」
「はい」
クリフトはためらわずに頷いた。
「じゃあもしアリーナさんだったとしても、クリフトさんはそうなさるのですか?
わたしと……同じように」
その瞬間、終始冷静な色を保っていた蒼い瞳が小さく見開かれた。
絵のように端正な彼の顔が、まるで朱を散らしたようにさっと赤く染まる。
彼女の名前を出した途端、穏やかだったクリフトの表情に、みるみる動揺が浮かぶのを目の当たりにして、ミネアは何かに貫かれるような、鋭い痛みが胸を突き抜けるのを感じた。