キスの熱
(触れ合う唇が熱に変わる)
(キスの熱がまた恋を呼ぶ)
(そんな不思議な精霊の魔法が)
(もしもとある悪戯を、引き起こしてしまったとしたらどうする……?)
~キスの熱~
その日も、外は永遠のように降り続く雨。
雨期を迎えたコーミズ村は、霧のような白い水煙に包まれている。
もうすぐやって来る夏に備え、天からの恩恵を十分に蓄えておこうと木々は枝をはりめぐらせ、生い茂る葉は葉脈の隅々までぴんと伸ばして、銀色の絹糸のような温かい雨を心地よさげに全身で受け止めていた。
「ああ、濡れちゃったぁ」
宿屋の扉が開くと、続けてまるで色とりどりの花のように、華やかな空気をまとわせた三人の女性が入って来る。
部屋の隅にある椅子に几帳面に背筋を伸ばして腰掛け、聖書を読んでいたクリフトは顔を上げた。
「アリーナ様、お帰りなさいませ」
「ただいま。クリフト」
鳶色の髪と明るい瞳をした人形のような顔立ちの少女は、立ち上がった彼を認めて愛らしく頷いた。
「なにもわざわざこの雨の中、散策に出掛けられなくとも。
お体が冷えて、お風邪を召しては大変です」
「今日は万聖節でしょ。
明日の死者の日に備えて、ミネアとマーニャのお父さんのお墓を綺麗にしておきたかったのよ」
それでも掃除など、雨が止んでからでよかったのではないか。
思わずそう言おうとして、クリフトは言葉を飲み込んだ。
ただでさえマーニャからは、もう17になる主に対してあまりに過保護で過干渉だと、常日頃からけちをつけられてばかりいるのだ。
「大丈夫よ。わたしは頑丈に出来てるからね。
それよりミネアが、気分が悪いみたいなの」
アリーナの傍らで長い髪の少女が、弱々しくうつむいた。
「ご、ごめんなさい。
草抜きをしていて、触れてはいけないアイオアの葉をうっかり触ってしまって」
「それはいけません」
クリフトは急いでミネアに駆け寄り、額にそっと手を当てた。
少女の滑らかな頬が、褐色の肌でもはっきりと解るほど朱くなる。
「アイオアは食虫植物。細菌を多く持ち、触れると必ず高い熱が出ます。
すぐに解毒剤を煎じましょう。部屋に戻り、横になっていらして下さい」
「やーさしーい、クリフト!」
マーニャがからかうように叫んだ。
「よかったわねミネア、クリフトがあんたのために薬を作ってくれるらしいわよ!
こんな機会めったにないんだから、思う存分くっついておきなさいな!
この娘もむくわれない恋をしているのは、ちゃんと解ってるのよ。
でもほんの少し甘えるくらいなら、許してくれるわよね、アリーナちゃん」
「ゆ、許すもなにも」
アリーナは頬を赤らめ、気まずそうな表情を浮かべた。
「クリフトの煎じた薬を飲めば、どんな不調もすぐに良くなるわよ。ミネア、早く休んだ方がいいわ。
それでなくともこんなに濡れて、温まらないと風邪を引いちゃう」
「で……でも」
「じゃああたし、お風呂に入ってこよーっと。アリーナちゃんも一緒にどお?」
己の発言でにわかに硬くなった空気に全く気付かぬように、マーニャが暢気に言った。
「そうね、そうしようかな」
「じ、じゃあ、わたしも……」
「駄目ですよ、入浴などとんでもない」
クリフトは生真面目に首を振った。
「ミネアさん、アイオアの毒を軽く見てはいけません。
脅かすわけではありませんが、迅速な治療を怠り、命を落としてしまう者も中にはいるんです。
さあ、部屋に参りましょう。わたしも着いて参ります」
「あ、ありがとう……ございます」
ミネアは消え入るような声で言い、気掛かりそうに後ろを振り返った。
アリーナはそれに気づき、さっと目を逸らした。
今目を合わせても、きっと上手く笑えない。
ちゃんと解ってる。占星術師であるミネアは、精神力を消耗するため疲れやすく、すぐに体調を崩すので、医術の心得がある仲間のクリフトが常に気をつけていなければならないのだ。
(こんなことでやきもちを焼いていたら、とても旅なんて続けてられないわ)
それでも頭で理解しているように、どうして心は働いてくれないんだろう。
薄雲のように心に立ち込めた、澱んだ感情を振り切るように、アリーナは踵を返して浴室へと足早に向かった。
その場を去るあるじの後ろ姿に、急いで何か言おうしたクリフトは、傍らのミネアがふらりと倒れ込んだのに気付いて、表情を険しくした。
「ミネアさん!」
「だ、大丈夫……です」
「ちょっとお、平気なの?」
不安げに駆け寄ろうとするマーニャを、クリフトは素早く手で制した。
「残念ですが、どうやらもう発症してしまったようですね。
アイオアの細菌熱は、感染します。心配でしょうがマーニャさんは近づかない方がいい」
「だってあんたは、クリフト?」
「わたしは実は、幼い頃にかかったことがあるんです。だから免疫がある」
クリフトは安心させるように微笑んだ。
「それにミントスで、あんなにひどく寝込んだばかりなんですから。あれから意識して、体調には十二分に気をつけています。
だからミネアさんのことは、安心してわたしにお任せ下さい」
「ありがと。頼りになるわねえ」
マーニャはほっとしたように言うと、上目使いにちらりとクリフトを見た。
「だからってクリフト、一途なミネアが弱ってるのに付け込んで、看病のどさくさに紛れてやらしいことなんてするんじゃないわよ、いい?」
「馬鹿なことを」
クリフトは呆れたように、深いため息をついた。
「マーニャさん、先程もそうでしたが、あなたのその思い付きの物言いが、時としてどれほどアリーナ様やミネアさんに心痛を与えるのか、少しは考えて頂かないと」
「あら、あたしは思い付きで物なんて言ってやしないわよーだ」
マーニャは綺麗に塗られた唇の片方を持ち上げて、小さく舌を出した。
「だあって、まだるっこしくてしょうがないんだもの。
あんた達三人は三人とも、好きなくせにはっきりしようとしないで、いつまでもうじうじして、見てると苛々しちゃってたまらないのよ。
いいクリフト、教えてあげる。アリーナちゃんはどんなに可愛くても、所詮は身分違いのお姫様。
旅が終わればお城に帰って、どこかの国の高貴な王子様と、幸せな結婚をしちゃうのよ。
その点ミネアなら、あんたの神様がどうとかいうややこしいお説教もおとなしく聞くし巡礼の旅に出なければいけない時も、タロットと水晶さえあれば、ふたつ返事でどこへだって着いて行くわよ。
なによりとびきりの美人で気立ても良くて、料理も上手。妻に娶るには持ってこいでしょ!
どう?アリーナちゃんには悪いけど、ここらであたしのかわいい妹に、さっさとくら替えするって言うのは?」
「お話はそれだけでしたら、浴室に向かわれる前に、ミネアさんの着替えを用意して下さいませんか」
クリフトはぐったりとしたミネアの身体を両手で抱き抱え、眉をひそめた。
「まずいな。もう熱がこんなに上がってる。
これはもしかしたら、酷くなるかもしれない……」
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