邂逅のとき
クリフトが、やって来た。
これまで三日の間、変わらず澄んでいた群青色の彼の瞳が、まるで雨が降る前の海のように、薄灰色のざわめきをたたえている。
この人は、あたしたちと別れるのが悲しいんだ。
神官なんて仕事をしているから、出会いも別れも星の数ほど経験してきたはずなのに、目の前のクリフトの瞳はおかしいくらい悄然としていて、言葉よりはっきり「寂しい」と語っていた。
姿勢よく歩いて来た彼は、昨日までとは違って、全身きっちりと旅支度を整えている。
清潔そうな法衣の腰には道具袋を掛け、背中に長い聖杖を履き、丈夫な鹿革のベルトには青銅製の大きな盾を吊るしていた。
五角形の盾のレリーフの上に付いた、たくさんの傷。
堅い岩が直撃したような歪んだ凹みに、明らかに魔物のものだとわかる爪痕まである。
(戦ってるんだ)
あたしは黙ってクリフトの背中に回り込むと、盾に刻まれた傷を指で静かになぞった。
クリフトは戸惑ったような顔をした。
「……フィエサ?」
(ものすごく深い傷。こんなのが身体に当たったら、どれほど痛いことかしら。
こんな優しい人が、ほんとうに戦ってるんだ。
誰かを護るために、命を懸けて。
それが、この人の誇り……プライドなんだ)
「クリフトさん、どうもありがとう」
あたしが黙っていると、イーサがさっと前に出て頭を下げた。
「あなたのおかげでぼくたち、この国でも何とか生きていけそうな気がして来たよ」
「イーサはこの数日で、ずいぶんとしっかり者になったみたいだね」
クリフトは微笑んだ。
「初めて会った時と、瞳の輝きが全然違う。姉を護るよい騎士になりそうだ」
「自分にも自信を持てるなにかがあるんだってことが、わかったんだもの」
イーサは笑った。
「桔梗、芍薬、甘草。絶対に忘れない。
全部の効能を鼻歌で説明できるくらい、頑張って勉強するよ。ぼく」
「頼もしいな」
クリフトは瞳を細めた。
「君達が自分を誇れる大人になった姿を、ぜひともこの目で見てみたい」
「ま、また会えるわよね、きっと」
あたしは平静を装って言った。
「あんた、大切な旅の途中だったのよね。だったらすぐは無理かもしれないけど……、
サントハイムはとても遠いから、簡単には行けないかもしれないけど、でも必ず……また、会えるわよね」
「もちろん」
クリフトは頷いた。
「また、必ず」
「次に会うときはクリフトさん、サントハイムの王様になってるのかなあ」
イーサがからかうように言った。
「あるじのお姫様に、こっぴどく振られてなければいいけど」
「なっ……」
クリフトは真っ赤になると、慌ててしかめっ面を作った。
「お、大人をからかってはいけないと、言っただろう」
「……ねえ、クリフト」
そのとき。
どうしてそんなことを口にしてしまったのか、今でもあたしはわからない。
でも頭で考えるより先に、逸る言葉はせせらぎのように唇からあふれた。
「あんたがもし……、もし、あるじのお姫様に振られた時は、あ、あたしにも少しは望みがあるかな。
あたしが大きくなって、うんと美人になってあんたの所に行ったら、あんたはあたしのことを好きになってくれる?」
クリフトの蒼い瞳が、びっくりしたように見開かれた。
あたしはさっと顔を赤くして俯いた。
長くて短い一瞬の沈黙。
閉じた唇が、ふわりと虹のようなアーチを描くと、日だまりみたいに温かくて広い掌が、包み込むようにあたしの頭を撫でる。
「フィエサ、君は今でも最高の美人だ。
わたしは君のことが、とっくに大好きだよ。
だが君が大人になった頃、わたしは君の傍らに立つ権利を持つ男としてはもう、年を重ねすぎているだろう。
そして、たとえどんな結末を迎えたとしても、わたしは生涯この想いを手放すことは出来ないだろう」
「……ふうん」
甘くて鋭くうずく、初恋を失う痛み。
たった三日間で、この青年はあたしに多くを与え過ぎた。
「でもイーサ、フィエサ。
もしまた会えたなら……その時は、
その時は、きっと」
「おーーい。行くわよーーー、クリフト!」
不意に言葉を遮られ、クリフトはぴたりと口をつぐんだ。
だから彼がそのとき何を言おうとしたのか、あたしにはもう知ることは出来なかった。
朝日を背にした小柄な影が、こちらに向かって大きく手を振っている。
逆光のせいでその姿は金色の光に覆われ、顔も、衣服の色さえもわからない。
「どうしたの、クリフト。さあ、出発するわよ」
「……はい、姫様」
クリフトの視線が、ふっとあたしから離れた。
「申し訳ありません。すぐに参ります」
「まだまだ旅は続くけど、今日もみんなで頑張ろうね!」
笑顔に混じる、太陽を切り取ったような明るい声。
陽射しの隙間からおぼろに覗く鳶色の瞳を捉え、あたしは小さな声で呟いた。
(……なーんだ。
クリフトの奴、なにがどんな結末をむかえようとも、よ。
あんたの大切なあるじの瞳の中に、欲しい答えはもう、全部書いてあるじゃない)
あたしとクリフトの足元から伸びる、今はまだ見えない放射状の未来への道筋。
それはおそらくもう、二度と交差することはないのだろう。
彼は彼の生を歩み、あたしはあたしの生をもがき、たまたま点と線がぶつかり繋がって描かれた、物語の隅の落書きのようなありふれた出会いと別れ。
一見無意味で、誰ひとり気付かないその軌跡が、やがて確かなしるしを遺す。
生きる誇りに支えられた、まだ見ぬ希望への足取りを。
限りある命が最後に迎える、邂逅のときへの道標を。
「じゃあ、さよなら。またね、クリフト!!
大好きなお姫様と、いつまでも仲良くねーーー!!」
お腹の底から出した声で叫ぶと、遠ざかる背中がぐらっとよろめいて、慌ててまっすぐ元通りになる。
振り向かないまま左手がさっと上げられ、傍らのあるじに気づかれないように、神官の青年はこっそり、ピースサインを作った。
―FIN―