邂逅のとき
時を経て、ここは世界一の都エンドール。
雑多繁華な城下街を分断する、東西南北の街道が交差した辻の、そのまたひとつ裏通り。
栄華を極める賑やかな大広場の喧騒が嘘のように、薄暗い袋小路へと続く雑居小屋が連なる。
ほんの十数年前までは、排水口に痩せた猫の死骸や、育つことの出来なかった赤子までが浮かぶ、明日をも知れぬ生活に喘ぐ貧困層が繁栄の陰で息をひそめて暮らす、汚れたスラムだった。
だが、今は違う。
「はい、今日も来たわよ!
フォロプリストのよろず屋が、商売繁盛の神の息吹きに乗って!」
山のように積み荷を乗せた台車のがたごという音と、ヒタキのさえずりのように通る声。
それを合図に次々と戸口が開き、中から明るい顔をした人々が飛び出して来る。
「待ってたよ。裏通りの女神様、どこへでも駆けつける動くよろず屋さん!
マダム・フィエサ、今日の目玉はなんだい?」
「えーっと、今日はねえ」
声の主であるまだ若い女性は、顔じゅうほがらかな笑いにして言った。
「珍しいのなんの、世界に名だたる秘湯、アネイル温泉から取れた湯の花よ。すごいでしょう!
一緒に石灰もたくさん届いたわ。みんなのぶんをちゃんと均等に分けるから、いつものように掃除に使ってね。
それからコナンベリー特産の干し魚に、日持ちするプラムの砂糖漬けもたんとあるわ。
鹿肉はお乳の出にいいから、子供が生まれたばかりのアクイラ一家に。
それからダール爺さんは、ついに最後の前歯まで抜けちゃったのよね。
蜂蜜飴をたくさん仕入れたから、ゆっくり舐めて滋養をつけてちょうだいな」
「マダム・フィエサ」
台車を囲む人だかりの中から、気掛かりげな声が飛んだ。
「城下町のよろず屋の綺麗な女主人、フィエサ。
あんた、いつもこうしてあたし達のために食料や生活品を運んで来てくれて……。
あんたが来てくれるようになってから、この裏通りはどんなに活気づき、健やかな笑い声が溢れるようになったことか。
でも、肝心のあんたはどうなんだい?あたしたちからろくにお代も取らないで、こんなの商売なんて言えたものじゃあるまいに」
「お代なら、ちゃんともらってるじゃないの。全員からきちんと」
「あんなはした金じゃ、薬草ひとつ分の儲けにもなりゃしないよ。
表大路にあんな立派な店を持ってるのに、いつも主人のあんた自ら、女の細腕でここまで荷車を引いて来てくれる。
あんたのお陰でここらの住人はすっかり元気を取り戻して、今じゃ男たちが出稼ぎに行けるまでになった。
でもこれじゃ、あたしたち裏通りの住人があんたの大事な稼ぎを食い潰してるんじゃないかって心配なんだよ。
あんたもちゃんと得をするように、もう少し多めにお代を取ったほうが」
「得はしてるわ。みんなの笑った顔が見られるもの。笑うことが出来るのは人間だけの特権よ。
それにね、お金はそんなにたくさんはいらないの」
うら若い女主人の声に、ふと慕わしさが滲み、己れの行動を誇るように張り上げられる。
「知ってる?お金って、好きな所へ歩いて行くための、脱ぎ履き自由な靴みたいなものなのよ。
今のあたしには、丈夫で履き慣れた一足の靴がちゃんとあるわ。
その足で歩くから、こうしてみんなの笑顔と会うことが出来るの。
それを知ったことが、今のあたしの生きる喜び。あたしの大切な誇りなのよ」
「よお、それでこそ「祝祭」!
エンドールの誇る美しきマダム・フィエサ!
男を寄せ付けないためにマダムなんてわざわざ名乗ってるけど、本当はまだ独身なんだろ。知ってるんだぜ!」
その時、ざわつく人垣を乱暴に分け入り、突然飛び出して来たのは、よろよろと足をふらつかせた酔漢だった。
「別嬪の女商人、フィエサ!幸せの祭りを呼ぶ女。俺はお前が好きだ!」
(……いいかい、フィエサ)
女は記憶を辿りながら摺り足で一歩下がり、抱きつこうとしてくる酒臭い塊からすっと上体を引く。
ひゅっと音を立てて鋭く息を吸い、瞬時に腰を落して、右足を高々と振り上げた。
(三日間つま先立ちをこなすことの出来た君に教えるのは、当代一の武術家であられる我があるじ直伝の「蹴り」だよ)
まるで昨日聞いたばかりのように、鮮やかに脳裏に甦るあの涼やかな声。
(俗世において、とかく女性は身を危うくする事態に遭遇することが多い。
たった三日の鍛錬では、我があるじほどとは到底行かないが、それでも護身の術を身につけている者とそうでない者とでは、歩める範囲が大きく変わってしまうものだ)
「ぐうっ!」
下腹部に放った強烈な一発を受けると、男は苦しげに呻いてあっさりその場に崩れ落ちた。
荷車を囲んだ人だかりが一瞬しんと静まり返り、次にわっと歓声が上がる。
「フィエサ。全くあんたはすごいよ。マダム・フィエサ!
強くて逞しいエンドールの名打ての女商人、フィエサ!」
「賢きはこれ即ち危うきを知る、という言葉があるのよ。悪戯者の酔っ払いさん」
手を差し出してうずくまる酔漢を助け起こしてやると、祝祭の名を戴いた女は輝くように笑って、すかさず小さな瓶を差し出した。
「さあ、これをあげるわ。昼間からそんなに飲むのは体によくないわよ。
どんな病も痛みもたちどころに治す、西の王国サントハイム伝来の、ミルフォイル入り万能薬。
心配しないで、賢い弟の調合通りに作ったやつだから、効能は御墨付きよ。
あいにく弟は旅医者として世界中を巡っているから、今どこにいるのか解らないけど、きっとたくさんの人の命を救うため、あの子は今日も懸命に働いているはずなの。
なぜかってそれは、いつも胸を張れる自分でいるため。
いつかやって来る大切な魂との邂逅のときに、「生まれた以上の自分」になるため。
かつてわたしたちにそう教えてくれた、彼のようになるためよ」