邂逅のとき


夕べの月夜が運んできた晴天の下を、風が吹き抜ける。

蒼い目をした背の高い神官の青年から、昨日と同じ香木のような濃く甘い匂いが、ふわりと漂った。

「わたしの大切な仲間であるトルネコさんは、つねづねこうおっしゃる。

この世界はお金で成り立っていると。

善悪を超えて、人間が生きていくために絶対に必要なものは、お金なのだと」

クリフトはそう言って、なにもない宙をじっと見た。

彼自身は必ずしもそう考えているわけではないのだと、思慮深げなその目が語っていた。

「これについては、わたしも散々考えた。正直に言うと、今も考えている。

この世界はアッシャーと呼ばれる、いわゆる物質界だ。物質の中で人間が生きていくには、対価としての貨幣が必要となる。

だが、わたしは神の教えを説く者として、それら物欲から解放される道を目指す者であり、それゆえ……」

言いかけて口をつぐみ、クリフトは自嘲気味にほほえんだ。

「……やめよう。言葉にしてうまく説明できないことを、不用意に口にするものではないね。

つまり、こういうことだと思うんだ。

人が生きていくためには、お金がいる。

毎日お腹がすくし、寒い日は温かい服を着たいし、時には本を読んだり花を飾ったり、楽器を奏でたりもしたい。

お金はそうした生きるすべを手にするための、単なる手段のひとつだと考えたらいいのではないかな。

お金自体を目的にしてはいけない。お金は歩き出そうとするわたしたちの足元に並べられている、脱ぎ履き自由なただの靴だ。

裸足でだって歩いていけるし、もしも靴がたくさんありすぎたとしても、わたしたちは一体どれを履いたらいいのか解らなくなってしまうだろう?

だからもしこれから、きみたちがなにかのきっかけでその靴をたくさん手に入れた時は、必ず正しいやり方で、他の人にも分けてあげること。

歩き出す手段を、自分以外の誰かにも伝えてあげること。

そうすることで貨幣は巡る。物質への執着もまた流れる。

そう考えてお金を持つことだ。使うことだ。わかったかい」

「うん」

イーサは神妙な顔をして頷いた。

「お金にたいした意味はなくて、脱いだり履いたりする靴みたいなものだってことだね」

「そう。あると便利だ。全くないと困る。

けれどたくさんは、いらない」

クリフトは黙り込んだあたしを見て、ほほえみを浮かべた。

「どうやらフィエサは、納得していないようだね」

「……だって、あたしたちの両親は、お金がないせいで死んだのよ」

あたしは抑えた声で言った。

「あたしには、そんなふうに割り切れない。いいえ、きっとあたしだけじゃないわ。

あんたは華やかな表大路の美しさに隠れた、この街の裏路地の汚れた有り様を見たことがある?

ひと匙のミルクすら口にすることが出来ず、枯れ枝のように痩せさらばえて死んでいく、かわいそうな赤ん坊のむくろを。

下層階級と呼ばれ、希望のない一生を終える人々の死んだ瞳を。

あたしには……、そんなふうに考えられない」

「だが、その貧富の差とてまた、貨幣の存在が生みだしたものなんだよ」

クリフトは静かに言った。

そして重苦しい空気を和ませようとするように、優しく笑った。

「サントハイムの教会では、こう言われているんだ。

人間が生きていくために必要なのは、太陽の光と土と時々の雨。そしてプラムとリンゴの苗、一本ずつだけだとね。

それを大地に植えて育て、実った果実を皆で分け合って食べる。春夏はプラムを、秋冬はリンゴを。

それが神が望む、人間のほんとうの理想の暮らしなのだと」

蒼い瞳が柔らかい光をたたえ、じっとあたしを覗き込む。

「フィエサ、確かに作り上げられてしまった世界を急に変えるのは無理かもしれない。

一度色を塗られてしまった絵を、真っ白に戻すことは難しい。それが黒い色であればあるほどだ。

でもわたしは、理想を信じたい。変えようとする真っ直ぐな理想の力を信じたい。

そして、それを実行に移す強い勇気を。

そんな人々が増えれば、いつかきっと世界は変わる。

君たちもその一員なんだよ、イーサ。フィエサ」

「ぼくが……」

イーサはなにかに突き動かされるように、大きく目を開いて繰り返した。

「ぼくが変われば、世界も変わる」

「そうだ。どんな時もその気持ちを絶対に忘れては駄目だ」

穏やかなのに力強い、不思議な声。

「……あ、あんた」

なぜか唐突に涙がこぼれてしまいそうになり、あたしは慌てて言った。

「黙って聞いていれば、なかなか面白いこと言うじゃない。

もしもあんたみたいなやつが王様になれば、いかれたこの国も少しはまともになるかもしれないわよね。

ねえ、あんたはあるじのお姫様のことが好きなんでしょ。その人と結婚して、さっさと王様になればいいのよ。

そしてあんたの掲げる理想が世界じゅうに行きわたれば、このエンドールだって少しは変わるかもしれない。

貧しくて無力なあたしたちのためにも、お姫様と結婚して王様になりなさい。

それとも全くの片思いで、あんたみたいな神官には、はなから全然望みはないの?」

「……な」

クリフトは呆気に取られた顔であたしを見ると、次の瞬間、かあっと耳まで真っ赤になった。

「な、な、何を馬鹿な……」

「あら、少しも馬鹿なんかじゃないわ。

愛し合う男と女は、神の前で永遠の誓いを交わして結婚するのよ。そんなの子供のあたしだって知ってる。

さてはあんた、偉そうなことを語ってるわりに、恋するお姫様とはまだ、好きどうしにもなれていないのね」

「す、好きだなどと、そのような……!

わ、わたしはただ姫様をお守りするためだけに、だ、だからその、決して……!」

先ほどまでの能弁はどこへやら、神官の青年の端正な顔は、一気に崩れた。

赤くなったり青くなったり、しどろもどろで何かわけのわからないことを早口で言うと、両手でこめかみを押さえ、困惑しきった顔であたしを見る。

「……子供が、大人をからかってはいけないよ」

「あら、大人だってほんの少し前まではただの子供だったくせに。年上ってだけで威張らないで」

「……」

「それより、早く続きを教えなさいよ。

あんた、そもそもあたしたちに、ものを売る秘訣を話したかったんでしょ」

「そ……そうだったね」

クリフトはようやく気を取り直したように、口調を改めた。

「だがその前に、イーサ、フィエサ。ひとつ約束して欲しい。

明日、わたしはこの国を去る。君たちとはここで別れることになる。

そうしたらその足でそのまま、君たちふたりに向かって欲しい場所があるんだ」

落ち着きを取り戻した低い声が、ゆっくりと告げた。

「それは、修道院だよ」
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