あの日出会ったあの勇者


名残惜しげな警備隊長スティルに別れを告げ、ライと緑の目の若者はブランカ王城を出た。

「あいつ、笑っちまうくらいあんたにうっとりだった。べっぴんさんは大変だな」とライがからかっても、若者はもうにこりともしなかった。

どうやら動揺や感情の乱れをうかつに人に見せることは、彼にとって失態なのだ。先ほど真っ赤に染まった頬も、今ではいつも通り冷たく引き締められている。ライがべったり腕にしがみついていることに異を唱えるのはもう諦めたらしく、歩きにくそうに眉をひそめているが何も言わない。

兄弟という言葉にあれほど反応するなんて、こいつ、きっとひとりっ子だ。ライは考えた。

ひとりっ子は兄弟にやたらと憧れているものだ。俺なんて、エレックという兄ちゃんがいるから、兄弟がいいことばかりじゃないってのをよく知ってるけど。

好きなごはんのおかずも兄ちゃんの方が多く取るし、些細なことですぐ喧嘩になる。いつも兄貴風を吹かせて威張るし、絵という才能を盾にして、忙しい母さんをひとり占めしている。兄ちゃんなんかいなければいいと思うことはしょっちゅうだ。

……でも。

ライの脳裏にふと、頬を赤くして動揺した緑の目の若者の顔が浮かんだ。

自分が当たり前に持っていて、時にうっとうしいとすら感じてしまうものが、誰かにとっては思わぬ憧れの対象であったりもするのだ。

それは家族であったり、環境であったり、もしくは容姿であったり。俺は兄ちゃんなんかいなければいいとよく思うけど、こいつにとってはきっと、兄弟がいるということはひどく羨ましいことなんだろう。

見ているだけでため息がこぼれるような、常人離れしたこの若者の美貌も、そばかす、鼻ぺちゃのライからすればとても魅力的なのに、あれほどしっかりとマントで隠すあたり、当の本人にとってはただただ邪魔でしかないようだ。

つまり物事の価値とは、受け取る側の感性によって始終ころころと変わる。

それは言葉を換えれば、世の中で起きる全ての物事に、自分には見えていない価値があるということだ。ただそれを所有している者たちが、気づいていないだけなのだ。当たり前にそこにあり過ぎて、見落としているだけなのだ。自らが手にしているものの途方もない価値に。

そのかけがえのない素晴らしさに。

壮麗な城門を背にしながら、ライと若者は同時に空を見上げた。そうやって寄り添っていると、たしかにふたりは仲の良い兄弟のように見えた。

灰色の空から滝のように降り落ちていた雨は、もうすっかり止んでいる。雲の切れ目から太陽が顔を出し、金色の柔らかな陽光を遠慮がちに注ぐ。

水気をたっぷり含んでぬかるんでいた地面はあたためられ、その湿り気を少しずつ手放そうとしている。

「このまま俺から離れるなよ、ライアン」

ライが顔をあげると、緑の目の若者は空中の一点を見つめ、かすかに唇を動かしてなにかを唱え始めた。

瞳孔がじりじりと開き、虚空の向こう側をとらえる。さっき、痛めた足に風呂屋で魔法をかけられた時と同じだ。またあの不気味な感覚に見舞われるのかと思うと怖くなって、ライは身をすくめて若者の腕を掴む手に力を込めた。

「こ、今度は、何をするんだ」

「移動魔法を使う」

若者はライを見ないまま言った。

「俺は人間を無用に怠惰にし、五感を鈍らせる魔法は禁じ手だと思っている。だから普段生活する上で、ホイミもルーラも一切使わない。本来、傷は身体が癒し、移動は足が行うべきものだからだ。

だが、もう時間がない。今日は特別に二回も禁を破る。一日にこんなに何度も魔法を使うのは久しぶりだ」

若者は左手をすっと持ち上げ、上空にまっすぐに掲げた。

「ルーラ」

とたんに、脳がぐわっと揺さぶられるような激しい衝撃が下腹部を貫き、ライはひっと叫び声を上げた。

だが、それも気のせいだった。実際にはなんの声もあげることが出来なかった。突如視界が真っ白な光に埋め尽くされて、何ひとつ見えなくなる。手足は氷のように硬直し、内臓が全部ひねりあげられて体の外に放り出されたような恐ろしい違和感があった。

やがて時間が経過して、徐々にあたりの景色が形を持ち始める。

強烈な違和感が霧のように体内から消えて行くのを感じながら、ライは気づいた。

しっかりと掴んだ緑の目の若者の腕のぬくもり。肘をくの字に曲げ、突き出してくれている。小さなライが掴みやすいように。

そのくせ表情は険しくしかめられて、「いつまでくっついてる気だ。着いたぞ。さっさと離れろ」と面倒そうに口にした。
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