邂逅のとき


その夜の月がことさら大きく見えたのは、おかしな昂揚に心臓を弾ませた、あたしの単なる錯覚に過ぎなかったのだろうか。

「おねえちゃん」

クリフトに言われた通り、これみよがしに城門前で眠るのはもう止めて、あたしたちは彼と話した町外れの畑跡地の木の下に、そのまま並んで横になっていた。

「……なあに」

「もう寝てる?」

「寝てないわよ。だからこうして返事をしてるんじゃない」

月明りで金色を帯びた闇の中、傍らのイーサの目がべっこうのように光る。

「イーサ、教えて。

あんた、いつからなの。あんなことが出来るようになったのは」

イーサは一瞬黙った。

「……怒らない?」

「怒らないわ」

「たぶん、三歳くらい。覚えてる記憶がいちばん古い頃からかな。

気づくと一度聞いた歌や、なにげなく読んだ絵本の一小節が、頭の内側に書きつけたみたいに簡単にこびりつくようになってた」

「ふうん」

あたしは動揺を悟られぬように、小さく息を吐いた。

「それをどうして、言わなかったの。あたしにも、父さんや母さんにも」

「だって、言って気持ち悪い奴だって思われるのはいやだったし……、それにわざわざ言わなかったけど、ぼくはいつでも歌ってたよ。

教会から聞こえて来る言葉の意味も知らない歌を、台所でもベッドの中でも、家じゅうでいつも。

でも、父さんも母さんもおねえちゃんも、誰ひとりそれについてぼくに尋ねようとはしなかった」

イーサの言葉が、谷底へ投げ落とした小石のように、沈黙のすきまに落ちる。

胸に苦い痛みが込み上げ、あたしは急いで寝返りを打った。

気づかないってことは、無関心だってことと同義語だ。

貧しさに喘ぐあまり、全てを蜃気楼の夢に捧げてしまった両親の切迫した心にも、けんめいに歌を歌っては、健やかな才能のありかを訴えていた弟の寂しい心にも、

誇り誇りと見栄を張ってばかりのあたしは、ただの一度だって気づくことが出来なかった。

でもあいつは気づいた。


あの蒼い目をした、不思議で奇妙な背の高い聖職者。


「ねえ、ぼくクリフトさんが好きだよ」

その時まるで心を読んだように、イーサの声が宵闇に響いた。

「この国の人たちはみんな誰かを見る時、上から睨んだり下からへつらったり、横から探ろうとしたりする。

でもあの人の目は、すごくまっすぐだった。

ぼくを正面から見つめて、いい子だって言ってくれた。

君ならきっと出来るって。そんなこと言われたの、初めてだよ。

明日は何を教えてくれるのかな。どんな話を聞かせてくれるのかな。

すごく楽しみだ。おねえちゃんだって、そう思うでしょ」

「あいつはあさってには、もうこの国からいなくなるのよ。

去って行く人間に思いを掛け過ぎちゃだめ。辛くなるのは自分だわ」

あたしは目を閉じて呟いた。

自分に向けて発した言葉でもあった。

「さあ、寝ましょ。イーサ。生きとし生けるものは皆食べたら眠る。

それは誇りも記憶も関係ない、いにしえからの決まり事よ」

「ひもじくない夜なんて、すごく久し振りだね」

イーサは嬉しそうに言った。

「月も綺麗だ。今夜はいい夢が見られるかもしれないよ、おねえちゃん」

濃紺の夜空から舞い降りる銀色の光。

イーサと反対側を向いているのをいいことに、あたしはこっそり頷いた。

(確かに、夢見はいいかもしれないわ)

少なくとも明日の朝だけは、ああ、まだ死んでないんだと絶望しなくても済みそうだから。











「やあ、いたね」

昼の二点鐘が鳴るきっかり十五分前に、クリフトはやって来た。

昨日と似たような、教会のお仕着せらしい丈の長い刺繍入りの服を着ているが、今日は背中の杖の先に、昨日よりもっと大きな分厚い麻の袋を吊り下げている。

背丈の低いあたしたち子供と目線を近付けたいのか、ほんの少し前屈み気味に歩いて来ると、昨日会った時と同じように蒼い瞳に柔らかな光を浮かべ、にっこり笑った。

(よく笑う奴)

へらへらする男なんて論外だと思ってたけど、この青年は少し違う。

優しさを押しつけがましい言葉にする代わりに、笑顔という受け取り自由な媒体に変えている、そんな気がして、

(悪くないわ)

あたしは呟き、本人はきっとなにも考えていないだろうその微笑みに、ぎこちない笑顔を返した。

「見てよ」

あたしは自分の足を指し示した。

「ちゃんと、つま先立ちで過ごしてる」

「優秀だね」

クリフトは言った。

「かかとをつけられない生活というのは、存外辛いものだろう」

「べつに。ふくらはぎがちょっと痛いけど、何も食べられないことに比べたら、このくらい全然へいきよ」

「素晴らしい。見上げた克己心だ」

「ねえ、クリフトさん」

イーサが急かした。

「ぼく、ずっと待ってたんだ。朝起きてすぐに、ちゃんと二十回唱えた。

だから、昨日の言葉の意味を教えてよ!」

「もちろん。そのつもりで今日はここに来たんだよ」

クリフトは微笑んだ。

大きな麻の袋を背中から下ろすと、中からいくつもの瓶を取り出して地面に置く。

土の上に並んだ硝子の円柱の行列は、空っぽの広口瓶もあれば、中にはちみつ色の何かが入った蓋付き瓶もあり、透明な液体で並々と満たされた、ラベル付きの酒瓶のようなものもあった。

「全知全能の神が地上に降りてまず最初にしたことは何か、知っているかい」

クリフトは懐にごそごそと手をやり、なにかをあたしたちの前に差し出した。

新緑色の楕円形の若葉と、細長く垂れた蔓状の根だ。

「庭に、植物を植えた。

また植物は、大地の女神が生んだ子だとも言われている。

イーサ、君には地上の至高の宝、植物が育む無限の力を教えよう」
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