邂逅のとき
あたしは息を飲んだまま、しばらく言葉を継ぐことが出来なかった。
イーサは久し振りの食べ物を貪るのに夢中で、クリフトの言葉にはもう気を払っていなかった。
クリフトは木の根元に腰掛けて、自分もパンを手に取ると、几帳面にちぎってひとかけを口に入れた。
そして顔をほころばせた。
「おいしいな。さすがエンドール特産の杏パンだね。収穫したての小麦を使っている。
サントハイムにもライ麦を二度挽いた白パンがあるけれど、それと全くひけを取らない」
「お……、お国自慢はもういいわよ!」
わたしはようやく言った。
「あんたがあたしの気付かなかった、イーサの隠れた能力に目をつけたのはわかったわ。
だけどそれがなんなの?
あたしたちみたいな路上で生きる子供に、一体それがなんの役に立つって言うのよ?
難しい歌を歌いこなそうと、わけのわからない言葉をすらすら口にしようと、そんなもの、おなかいっぱいになるためのなんの足しにもなりゃしないわ」
「フィエサ」
クリフトは言った。
「君は先程から、誇りを持つことが大切だとしきりに繰り返すけれど、だとすれば誇りを持てる自分を育てることも、とても大事なのではないだろうか。
人はただそこに存在するだけで、生きる誇りを手に入れられるわけじゃない。
誇りは自信に支えられる。
そして自信は、努力に支えられる。
絶望の淵に追い込まれ、もう駄目だと力を失いかけた時、支えてくれるのは空っぽの誇りなんかじゃない。
それまで自分自身でひたむきに積み上げて来た、努力という名の輝く光だ」
クリフトはイーサを見た。
「イーサ」
「うん」
「さっきわたしが言った言葉を、もう覚えたかい」
「たぶん、大丈夫」
イーサは口の周りをパンくずだらけにして笑った。
「桔梗、芍薬、甘草……」
「これからそれを、決して忘れてはいけないよ。一日に二十回、必ず口にするんだ」
「えっ、二十回も?」
「そうだ。人間の記憶とは、風に吹きさらされる剥き出しの線描画だ。どんなに大切だと思うものも、時と共に必ず薄れてしまう。
そうならないためには時々自分の手で引っ張り出して、かすれた線を辿らなくてはならない」
「わかった」
イーサは神妙な顔で頷いた。
「ぼく、何回も繰り返す。絶対に忘れないよ」
「いい子だ」
クリフトはまたにっこりと笑った。
そして自分のぶんの食べ物を綺麗に食べてしまうと、うつむいて目を閉じた。
胸に拳を押しあてる。
祈っているのだ。
命を支えてくれる食物への感謝の祈り。
食物となって自分を支えてくれる、あまたの命への感謝の祈り。
(祈りが何の役に立つんだろう?)
祈ったところで結局おなかはすくし、食べれば食べたぶんだけ腹は満たされる。
人間が生きて行くために使う身体の機能は、祈りとは全く別の場所にあるような気がするけれど。
でもうつむいて聖句を呟くクリフトを見ていると、そんな質問をするのがとても愚かしいような気がした。
(こいつと出会って、ひとつわかったことがあるわ)
あたしは息を吸い込んだ。
(どの道、食べなきゃ人は死ぬってことよ。
そして死なないためには、自分の力でなにかが出来るようにならなきゃいけないってこと)
「ねえ、クリフト」
クリフトは目を開けた。
全てを見透かすような蒼い目が、あたしに焦点を合わせる。
あたしはかっと頬が赤くなるのを感じた。
「あ、あたしも、食べていい」
「もちろん。これは君のぶんだよ。
勝負に勝ったイーサをこれまで守って来たのは、姉である君だ」
クリフトは微笑んで膝を払うと、立ち上がった。
「では、わたしは今日はこれで失礼することにするよ。
よければ明日の二点鐘の時刻に、またここで会えないかな」
「ええっ、もう行っちゃうの?クリフトさん」
イーサは不服そうに言った。
「もっと一緒にいて、色んな話を聞かせてくれると思ってたのに」
「あまり長くひとりでうろうろしていると、あるじに叱られてしまうからね」
クリフトは楽しげに言った。
「それに騎士たる男が、貞淑な女性が食事を取るところをじろじろと眺めるものじゃない」
「でも、クリフトさんは騎士じゃないでしょ」
「イーサ、覚えておくといいよ」
クリフトは悪戯っぽく微笑んだ。
「この世の全ての男は、愛する女性の最も忠実な騎士でなければならないんだ。
たとえそれが、決して力で敵わない相手であったとしてもね」
笑って言うと、くるりと背を向ける。
「ま、待って!」
あたしは叫んだ。
「あ、あたしにも……あたしにも、なにかやるべきことを教えてよ。
このままじゃあたしは、単にイーサのおこぼれを貰っただけってことになるわ。
イーサが言葉を覚えたように、あたしにもなにか、自信に繋がる力を得るものを……」
「そうだね」
クリフトはあたしを見つめて、しばらく考えていた。
それから頷いた。
「ではこうしよう、フィエサ。
君は今日から丸三日間、つま先立ちで過ごすんだ」
「……は……?」
あたしは言葉を失った。
クリフトは意に介さないように続けた。
「そして、呼吸法を換える。
鼻から息を吸う時は、今までの三倍。吐く時は五倍の時間をかけること。吐く時は必ず、口から息を出すこと。
これが君への宿題だ」
「ち……、ちょっと……」
「では」
クリフトは片手を上げて踵を返すと、もう足を止めずに歩き出していた。
「また明日、会おう」