邂逅のとき
旅の暇つぶしの下らない戯れに、あたしの弟を巻き込まないで。
生きるのに必死なあたしたちには、異国からやって来た聖職者の遊び相手なんて、する余裕はないんだから。
喉まで出掛かった言葉は、クリフトの引き締まった表情と、対峙するイーサのもっと深刻な顔を見ると、まるで食べかけの飴を飲み込んだように、胃の奥へ滑り落ちて消えて行った。
イーサは頷いた。
「うん。出来ると思う、ぼく」
「イーサ?!」
あたしは驚いて弟を見た。
「こんなの、どう考えても無理に決まってるじゃない!
あたし……あたしは少しも」
姉の面目躍如しようと、必死で耳をそばだててみたけれど、単語の五つ目くらいから言葉は耳を通り抜け、すっかり霞んで忘却の海に呑みこまれてしまった。
クリフトはイーサに微笑みかけた。
「では、始めてごらん」
「桔梗、シャクヤク、か……甘草」
イーサは宙を見つめ、暗闇で見えない糸をたぐるように、静かに呟き始めた。
「桂皮、胡椒、ショウノウ、大黄……肉豆冠。
リョウキョウ、白檀、小葉十練子、大麦。
クチナシ……夷草」
あたしは唖然として弟を見つめた。
「イーサ、あんた」
「しっ」
クリフトは腕であたしの背中を引き寄せて、首を振った。
「静かに。あと少しだ」
「檜、糸瓜、人参。
ドクダミ、ゲンノショウコ。
桑、栃……キハダ、ムクゲ。
ち、丁子、杜仲、当帰、苦参、杏仁」
ほうっと吐いた息と一緒に、イーサが力強く告げた。
「そして、柴胡。
これで全部だよね、クリフトさん!」
「完璧だね」
クリフトが笑って片手を上げた。
「言い間違いも、少しの順番の狂いもない。
この勝負は君の勝ちだ、イーサ」
「やったあ!」
イーサは飛び上がって喜んだ。
「じゃあこれ、ぼくが食べてもいいんだよね!」
「もちろん。勝利者の君が勝ち得たものだよ」
「ありがとう。ありがとう、クリフトさん。いただきます!」
「ちょっと待ちなさいよ!」
あたしは裏返った声で叫んだ。
木陰に腰を下ろし、今まさに食べ物の包みを開こうとしていたふたりは、揃って振り返った。
「こんなの、いかさまじゃない。一度聞いただけで覚えられるわけがないわ!
あんた、仕組んでたのね。イーサとふたりでぐるになって、施しを与えるためにあたしをはめたのね。
そういうのが偽善だって言うのよ。いいことしてる自分に酔うための、嘘っぱちだっていうのよ!
許せない。お願いだから、とっととあたしたちの前から消えて!」
「おねえちゃん」
イーサの幼い顔が歪んだ。
「ぼく、いかさまなんてしてないよ」
「だって、小さいあんたにあんなややこしい言葉が……」
「フィエサ」
クリフトは穏やかに言った。
「わたしは、二日前に仲間たちとこのエンドールに着いた。
滞在するのは五日間だ。その間武器や所持品の手入れをし、食料を調達し、また軍資金を稼いだりもする。
だからここにいられるのは、今日を合わせてあと三日だけなんだよ」
「そ……、それがなによ」
「イーサ」
クリフトはイーサを振り返った。
「君は昨日の夕暮れ、教会の庭園裏で歌を歌っていたね」
イーサはパンを頬張りながら目を丸くした。
「クリフトさん、聞いてたの?」
「ああ、とても綺麗な声だったよ」
「あそこは涼しいから、昼間はよく入り浸ってるんだ。花壇に寝そべってても怒られないし」
「あの歌を、どうやって覚えたんだい?」
「うーん。ぼくは学校に行っていないし、歌を知らないから。
たぶん教会の中から聞こえて来ていた歌を、耳で覚えたんだと思う」
「では今ここでもう一度、歌ってみてくれるかい?
出だしはこうだよ……」
クリフトは歌い始めた。
「BuB'und Reu'、BuB'und Reu'、
Knirscht das Sundenherz entzwei……」
「ああ、そうそう。確かそんな歌だったよね」
イーサは急いでパンを飲み下すと、嬉しそうに続けた。
「BuB'und Reu'、BuB'und Reu'、
Knirscht das Sundenherz entzwei、
DaB die Tropfen meiner Zahren、
Angenehme Spezerei、
Treuer Jesu, dir gebaren………」
あたしは言葉を失ってイーサを見つめた。
クリフトは確信に満ちた微笑みを浮かべた。
「遥か昔に滅びた国より伝わるいにしえの宗教歌、<マタイ受難曲>。
歌詞は全て古代語だが、とても明瞭な発音だ。
エンドールの大寺院と言えど、今この歌をそらんじることの出来る聖職者はほとんどいないだろう。
恐らく、この度のボンモール王家との婚礼のために呼び寄せられた高位の司祭が、たまたま詠唱していたんじゃないだろうか。
イーサ、君はその歌を一度聞いただけで覚え、しかも完璧に正確な発音で、見事に歌いこなしているんだよ」