あの日出会ったあの勇者
「やあ、勇者さ……いえ、旅のお方。お戻りですか」
古めかしい蝶つがいがぎいい、と音を立てて動き、重々しく扉が開く。
緑の目をした若者とライが出て来ると、手持無沙汰で廊下に立っていたブランカ王城警備隊長のスティルが、嬉しそうに破顔した。
「途中、人が次々と出て来ましたのに、お二方だけがなかなか戻って来られませんでしたから心配しておりました。
無事に御用件は済まされましたか」
「ああ」
「それはなにより」
不機嫌そうに顔をこわばらせたライと目が合うと、スティルが鷹揚にほほえむ。
怒りと恥ずかしさが喉の奥でぐちゃぐちゃに混じりあって、ライはいつもの憎まれ口も叩くことが出来ず、ただ黙って目を逸らすしかなかった。
(御用件は済まされましたか、だと。無事に仕事が見つかったか、って俺には聞かないんだな。
こいつも、はなからわかってたんだ。俺が働くなんて出来っこないってこと。俺みたいな奴がひとり立ちなんて、そもそも出来るわけないってこと。
なにもかもわかってたうえで、ここへ通した。俺に、身を以って社会勉強をさせたつもりなのか。それが理解ある大人の分別ってやつなのかよ)
確かに、身を以って知った。自分がどれほど世間知らずで甘やかされた、自惚れの強い子供だったのかを。
だけどそれを知ったきっかけが、大人が敷いてくれたレールに乗せてもらったからだとは認めたくない。子供にだってプライドはある。どうだ、わかっただろう。世間はお前が思っているよりずっと苛酷なのだぞ、これに懲りたらさっさと家に帰れ、と書いてあるスティルの笑顔に腹が立つ。
すると、緑の目の若者が唐突に言った。
「じゃあ次からは、ひとりで行けよ」
「え?」
「これでもう、お前もいつでも仕事が探せる。次は人に頼らず、自分の足でここに来い」
そう言って、ライの手首にくるりと何かを巻きつける。黄色い染料で染め上げられた革ひもの先に、商工業ギルドの紋章であるヘルメスが彫り込まれた五芒星型の小さな銅板がくっついている。
ライは目を瞠った。
「手形だ……!どうして、これ」
「さっき、あの髭の事務長に貰った。これがあれば、お前は今後ひとりで城に入る事が出来る。ギルドにも自由に行ける。
つまりお前はこれから、好きな時に自分の生き方を選ぶことが出来る。お前がそうしたいと思った時に、いつでもだ」
なにも出来やしない自分への痛烈な嫌味なのかと、ライは思わず緑の目の若者をきっと睨み据えた。
だが美貌の若者の表情はいつものように平淡でなんの色も浮かべておらず、そこになにがしかの思惑を読み取ることは出来ない。
こいつ、どうしていつも、こんなふうに物事に無関心って振りをするんだ?
偏屈な顔ばかりしてるから、こっちからお礼も上手く伝えることが出来ない。ライはだんだん苛々し始めた。
見ず知らずの俺に飯をくれて、ここまで連れて来てくれて、ついにはこうして手形まで持たせてくれた。見た目ほど冷たいやつじゃないのはもうわかってる。風呂だって一緒に入ったじゃないか。
なのにライが一歩近づこうとすれば、さりげなく一歩下がり、ある一線までは親しくしてくれるけど、それ以後は徹底して距離を保とうとする。まるで、自分と深くかかわる人間を不用意に作りたくないかのように。
深くかかわる人間が出来ることを、無意識に恐れているかのように。
次第にいたたまれなくなり、不意にライはがっと若者の腕に飛びつき、自分の細い腕をぐるりと巻きつけた。
緑の目の若者はぎょっとして振り払おうとしたが、ライはコバンザメのようにがっちりとしがみついて頑強に離れなかった。
「なんだ、いきなり!離せ、てめ……!」
「いやだっ」
ライは叫んだ。
「離さない。まだ帰らないぞ。まだ終わっちゃいない。俺にはあんたの助けが必要だ。
今からふたりで一緒に、坂の上の一番街の工場に行くんだ」
「わかったから、離せ!くっつくな。気色悪い」
「俺、疲れたからもう歩けない。工場まであんたがおんぶしてくれ」
「だっ……」
緑の目の若者は絶句した。
「誰がするか!ふざけんな」
「ふざけてなんかない。本当にくたくたなんだ。あんたがかけてくれた魔法もそろそろ切れて、足がまた痛くなって来た。それに腹も減った」
「飯はさっき食っただろうが。それに、ホイミの魔法は根治回復だ。効果が切れてまた痛くなるなんてこと、あるわけないだろ」
「とにかく歩けない。一歩も歩きたくない。歩くもんか!」
ぴたりを身を寄せたまま、首をぶんぶんと振ってみせると、緑の目の若者の冷静な表情が崩れ、頬に赤味がさして、最後はほとほとあきれ果てたという顔に変わった。
たったそれだけのことでなぜだろうか、おかしいほど嬉しくなって、ライは若者の腕にぎゅっと頬をくっつけた。
一部始終を見ていたスティル警備隊長が、ため息をついた。
「まったく、小僧。お前と来たら骨の髄まで無礼千万だ。
天下の英雄であるこのお方と、まるで仲の良い兄弟のようにじゃれあいおって……」
ところがその言葉に反応したのはライではなく、緑の目の若者の方だった。
兄弟と言われた途端、美しい白皙がみるみるかーっと赤くなり、動揺しきって瞳が宙を泳ぐ。ライが目を丸くして見上げると、慌てたように反対側に顔を向けて、ぶっきらぼうに言い捨てた。
「俺はこんな糞生意気な弟、いらねーよ」