彷徨



朝が来る。


東の空から陽光が差し初めて、澄み切った穏やかな朝を彩ったが、夏間近の陽射しは時間を追うごとに強さを増そうとしている。

訪れた出立の日。

寂しさはない。

当たり前だ。

もう二十年近くも、いつだって自分はひとりで生きて来たのだから。


空っぽの寝台を見ては思い出す存在が、ひとつ増えただけ。


金色の朝日に照らされると、扉口に立った緑の目の少年の顔があまりに青白いことに、樵の老夫はふと不安を覚えた。

肉の削げたほほのくぼみ。

まるで絵物語の妖姫のように美しいが、いったい美貌が傷ついたこの少年にとって、なんの役に立つというのか。

(こいつの美しさは、不幸の代償だ)

まだこれから長いこと、この少年は苦しむだろう。

滞在中、なんとか食事を飲み込めるようになったが、依然味覚は回復してはいないようで、両手の震えも全く治まっていない。

眠るたびに悪夢にうなされ、叫ぶ。

身体が動くようになっても、近隣を散策に行こうともしないのは、よほど狭い世界しか知らずに育ったのか。

それでも目覚めて日の光を浴びると、駆けよって来た犬のシイの頭を撫で、庭の隅にある墓の前に佇み、黙って見つめた後、気付かれぬようにそっと手を合わせていた。

なぜだろう、その姿を見ると、老夫は唐突にこみ上げる涙を抑えることが出来なかった。


(おい、見てるか。


来やがったぞ。ずっと待ってたんだろう?)


どうしてそう思ったのかわからない。


(やっと会えたな、お前ら)


けれど少年は、もう旅立つと言う。


やらなければならないことがあるのだと。


(いいこった)


なんだっていい。


義務でもなんでも、思いは人を生かす。


歩みを進ませ、命に活力の血を注ぐ。


たとえ、それがどんな色をした血だとしても。


「ほらよ、遅くなったな。これがてめえの持ってたもんだ」

磨きこんだ剣を入れた鞘と、汚れた羽根帽子を差し出すと、少年の瞳に一瞬黒いもやのようなものがかかった。

羽根帽子にべたりとついた血の染み。

忘れようとした痛みが掘り起こされ、ふさぎかけた傷がぱっくりと口を開く。

出来ることならこれはもう、手放した方がいいのではないか。

老夫はそう思ったが、少年が素早くもぎ取って懐にしまったので、言葉はみぞおちの奥深くへと沈み込んでしまった。

「それから、てめえ……こんなものも持ってやがったな」

老夫は、麻布に包んだ小さなククリナイフを出した。

「刃の減り方が、先端に極端に偏ってやがる。小僧、もしかして彫刻でもやるのか」

「そんな大げさなもんじゃない」

緑の目の少年は顔を赤くした。

「小さい頃から木彫りを作るのが、なんとなく好きだっただけだ。

村から出られなくて退屈だったから、樫やカエデの木切れを使って」

「木彫り……、やっぱりか」

老夫は思わず舌をもつれさせた。

「に、人形作りは得意か。装身具に楽器は。

器に瓶に燭台や、時間をかければ机や椅子も」

「どうしてわかるんだ」

少年の不思議そうなまなざしから目を逸らすと、老夫は動揺を隠して首を振った。

「なんでもねえ。……昔、お前と同じように木彫りが存外好きだった奴をよく知ってたもんでな。

もう死んじまったが……てめえら、だから手格好が似てやがるんだな。ナイフの握り癖だ」

「木彫りが好きな奴なんて、いくらでもいるだろ」

「いねえさ!彫刻を趣味にする野郎なんざ、ごまんといる。

でも木に愛され、樹木の愛情を形に出来たのはあいつだけだった」

老夫は顔を上げて緑の目の少年を見た。

「……あいつは、いつも言ってやがった。樵に生まれてよかった。樹木と解り合うことが出来て良かった。

ただもうひとつ望みが叶うなら、いつかこの世のどこかにあるという、天空まで伸びる伝説の世界樹をこの目で見てみたかったってな。

だからよ、小僧。

もし……もし、おめえが行くことがあるなら、そいつの代わりに見てやってくれねえか、世界樹を」

「そんなところに用はないが」

少年はかすかに眉をひそめたが、やがて頷いた。

「もしいつか……そこに、たどり着いたなら」

「約束だぜ」

「約束なんて出来ない。俺は、約束は嫌いだ」

緑の目をした少年はしばらく迷って、ためらいながら口にした。


「約束は出来ない。


……だから、また会いに来る。


俺がなにを見たか、なにをして来たか、必ずあんたに報告に来る。


俺には、爺さんはいないけど……もしもあんたがそうだったら、悪くないなと思ったよ」


老夫が目を見開いたのと、少年が小さく微笑んで背を向けたのは、同時だった。


(……笑いやがった。


最後に、やっと)


「や、やめてくんな!気色悪りぃ。けつが痒くならあ!」


墓標と同じ名前を持った犬が走り寄り、緑の目をした少年の足元をぐるぐる回ってじゃれついた。

「じゃあな、シイ」

少年は身体を屈めて犬の頭を撫でた。

「元気で、爺さんと墓を守ってくれよ。

また来る。今度は、お前の好きな土産でも持って来るからな。


……犬って、なにが好きなんだ?」



言葉に呼応するかのように、犬が大きく跳躍して吠えた。


「ああ、必ず戻って来る」


少年は震える手を上げて、ゆっくりと歩き始めた。


大地を踏みしめる足音が鳴った。

呟きが鬨の声のように響いた。

もう振り向かなかった。





「行って来る」




-FIN-



 
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