彷徨
痛い。
震える手は、触覚を伝えることをもはや放棄してしまったらしく、何を触ってもふにゃふにゃした海月のように頼りなくて、正しい感触がまったく掴めない。
だが背中を床に打ちつけた時、痛みが頭のてっぺんまで駆け抜け、緑の目をした少年は自分の体がまだちゃんと機能していることに気がついた。
生きてる。
頬を舐める熱い犬の舌。
俺は生きている。
だって、痛い。
不覚にも涙が溢れそうになって、少年は横たわったまま、両の瞼の上に震える腕を乗せた。
知らなかった。
痛いってすごいことなんだ。
生きてるあかしなんだ。
だったら、みんな、もう誰も痛くないんだよな。
少しは楽になってるのかな。
ごめんな。
なあ、聞こえるか。
ごめんな。
「こいつはシイだ。シイってな、古代語で墳丘のことだ。墓に盛る土のことさ。
庭の墓の前がなぜか好きでな、いつもそこに居やがるからそう名付けたんだ。
不思議な奴さ。いつもじいっと墓石を見つめては、時々見えないなにかと語りあってるみてえに懸命に吠え声を上げてる。
誰が埋まってるか、知ってるわけでもあるめえし。あの馬鹿野郎が死んだあとに生まれたからな、こいつは」
シイと呼ばれた犬は、緑の目をした少年の体から飛び降りると、傍らにぺたりと座って嬉しそうにぱたぱたと尾を左右に振った。
「……犬は、初めて見た」
少年は瞼を拭って起き上がった。
「絵で見たことはあったけど、本物は初めてだ。思ってたより大きいんだな」
「おいおい、下らねえ冗談はよしやがれ。犬が初めてだあ?馬鹿言うな」
「本当だ。俺の住んでた村は、野に住むウサギや鳩を狩って食べていたから、小動物を捕えてしまう犬はいなかった」
「出鱈目を言ってるんじゃねえ。家畜を飼うなら、なおさら犬がいるだろうに」
「家畜じゃない。余計な匂いを出して獣を引きつけないように、動物を増やしたりしないんだ。
野に住む動物たちを、必要な時、必要な分だけ狩る。肉を食べて、残った死骸は地中深くに埋める。毛を焼くと煙が多く出るからだ。
だからいつも野菜や魚や燻製品ばかり食べていて、獲りたてのウサギやハトはめったに食べられないご馳走だった。
俺は、母さんに文句ばかり言ってた。
もっと肉が食べたい。強くなるためには、たくさん食べなきゃいけないだろ……って」
少年は暗く吐き捨てた。
「お笑いだな。何もかも、隠れて生きるためだったんだ。やっと気付いた。
みんな俺のために隠れて、俺のために息をひそめて、俺のために耐えて生きていたんだ」