彷徨
(----父さん)
(ねえ、父さん)
追憶。
埋み火のように寝ても覚めても心の底でくすぶる、もう忘れたい、遠い記憶。
二十年近くものあいだ、不用意に思いださないよう細心の注意を払って生きて来たのに、それでも少しも忘れられないのはどうしてなんだろう。
(ねえ、父さん、聞いてくれるかい。
俺、好きな人が出来たんだ。
その人は、とても不思議な人で……、壊れ物のようにもろくて儚くて、信じられないくらい綺麗な心を持った人。
今すぐは無理だけど、近いうちにきっとここに連れて来る。その時は父さん、会ってくれるかな。
俺が初めて好きになった人に、会ってくれるかな。
たとえそれがどんな人でも。俺たちとは、……ほんのすこしだけ違う世界で生きて来た人でも。
父さんならきっとわかってくれるよね。だって、人里離れた山奥で暮らす俺たち親子は知っている。
愛を分かち合える喜びも、幸せに弾ける笑顔も、
生きる喜びが生み出す奇跡の尊さは、誰もみんな、どんな形の命もすこしも違わないものだから)
関係ねえよ、てめえの好きにしやがれってんだ。この大馬鹿野郎。
生涯にただひとつの最大の後悔の言葉を、今さら何度振り返っても取り消すことは出来ない。
(だってよ、俺になにが言えた?)
大人しくて従順だった息子の寝耳に水のひとことに、家庭を顧みることなく脇目も振らず必死に働いて来ただけの男が、ほかにどんな言葉を贈れたというのだろう?
病で早逝した妻がもしそこにいてくれれば、鉄の斧ひと振るいで切り落としたヒノキの切り口のようにきっぱりと自分を押しのけ、厳しく、だが優しく、一人息子を叱咤し、諌め、励ましたはずだ。
重々しく頷いて放り出すことだけが、父親に出来る優しさだと信じていたあの頃。
もう失って、再び見ることの出来ないあいつの頼りなげな笑顔が、追憶の中で今も変わらない。
(嫌だな、そんな顔しないでくれよ、父さん。
わかってる。俺はまだ満足に斧も振るえなくて……こんなにたくさん飯を食ってるのに、どうしてもうまく太れなくて、
樵にとってなにより大事な手も指も、柄の握り癖が腫れるばかりで、こんなに頼りなく細い。
自分以外の誰かを守ってあげられるほど強くもなければ、そんな勇気も甲斐性もない。
でも俺、どうしてもあの人のことが諦められないんだ。
俺が生きて来て、このちっぽけな人生でそれでもたった一度、なにがあっても命を賭ける時があるとすれば、
今この時、あの人のためだけだって気がするんだ。父さん)
どうして今更思い出したのだろう。
たった一人の息子は弱々しく笑ってそう言い残して、ある日、天から落ちて来た雷に打たれて死んだ。