彷徨
どおんと地鳴りのような轟音が響いて、自分以外の皆が立っている足元が崩れる。
(助けて!
お願い。助けて!)
底なしの闇に母が飲まれ、次に父が飲まれ、砕けた地面の端にかろうじてぶら下がった少女が、悲鳴を上げて手を伸ばす。
だが少年が必死で掴んだとたん、それはどろりと空中で渦を巻き、みるみる自分と同じ姿に変わった。
(シンシア……!)
(ふふ、馬鹿だな。なにを驚いてるんだ?俺はお前だよ)
(自分が誰だかわかりもしない、役立たずの木偶の坊のお前のために、俺が代わりに死んでやるんだ)
鏡に映したように同じ形の顔が緑の目をした少年に近づき、唇と唇が重なる。
大好きな笑顔が輪郭を失い、虚空に溶けていく。
(さよなら。あなたといっしょに遊べて、楽しかった)
(だから、あなたは生きて。
たったひとりで、全部を失くしても)
(生きて)
緑色の目が少女の面影を消し、さよならの合図のようにひらひらと手を振る。
すべてが砂のように消え、恍惚とした憎しみだけが少年を取り囲んだ。
(生きて、苦しめ。
永劫の闇を、たったひとりで)
はっと目を開いた少年は、全身が冷たい汗でぐっしょりと濡れているのに気づいた。
痺れるような喉の痛みから、またさきほどの魔物と遭遇した時の様に、記憶を失くして叫び暴れたのではないかと不安になる。
だが彼が横たわっていたのは小さな樫の寝台で、部屋の中は暖かく、掛けられたサフラン色の毛布からは日向くさい干し草の匂いがした。
起き上がって身体を確かめると、手足のところどころにまだ血の跡が残っている。だが着ていた衣服は清潔な木綿のチュニカに取り替えられ、髪にこびりついていた血糊も綺麗に拭われている。
緑の目の少年はのろのろと腕を持ち上げ、両手を顔の前で広げた。
あまりに重すぎるものを抱えた時のように、小刻みな震えが五本の指から肩先まで続いている。
拳を丸め、時間を掛けてゆっくり広げても、一向に止まる気配はない。これではもう、まともに剣を握ることは出来ないだろう。
たったひとつ自分に残された、復讐のためのつるはしさえ、狂気と引き換えにこんなにもあっけなく失くしてしまった。
(助けて)
緑の目をした少年は、震える両手で顔を覆った。
シンシア、助けて。
頼むからさ。
俺……もう、
お前のとこに、
行 き た………
その時ふと、折り曲げた肘が左胸に当たった。
厚みのない平らな感触に少年の目が開かれ、さっと表情がこわばる。
急いで懐に手を入れても、そこにあったはずの羽根帽子はない。なにもない。
震える手で身体じゅうを探り、寝台から飛び降りると、床に顔をつけて辺りを見渡す。
部屋の隅にあった箪笥の取手を掴み、引き出しをぜんぶ引っ張り出して、乱暴に中をかき回していると、
「てめえ、なにしてやがる!盗っ人か!」
突如扉が音を立てて荒々しく開き
、緑の目の少年は野生の猫のように敏捷に飛びすさった。
騒々しい足音で大股で入って来た人物が、怒りに顔を染めて怒鳴りつける。
「驚れえたもんだ。近頃の餓鬼は病人でもずいぶんと手癖がいいんだな、ええ?
だが生憎だ、悪りいがそこに金になるようなものはなにも入っちゃいねえぞ!」
少年を睨みあげた人物の、長年の日焼けで牡牛のような焦茶色の浸みついた肌と、小柄だが逞しい筋肉質の体躯。
針金のように硬くごわついた亜麻の髪、同じ色をした髭。分厚い瞼から覗く鉄灰色の目は鷲のように鋭いが、眉間の皺や節くれた手の甲は老人のものだ。
「三日三晩眠って、ようやく目を覚ましたと思ったら、起きるなり慌てて泥棒仕事か?
それとも売られた奴隷くずれが、誰かどこぞの雇い主に盗みを働いて来いとでも頼まれてるのか。
一体なに考えてやがる?言いやがれ、この野郎!」
「俺の物を返せ」
少年はぎらりと瞳を閃かせた。
「俺が持ってた物を返せ。今すぐ、全部だ!」
「まず聞かれた質問に答えろ。この野垂れ死に損ないの糞野郎が!」
少年と樵の老夫は、視線で相手を射殺そうとするかのように、正面から激しく睨みあった。
硝子で切り刻んだような眼差しに、どこか似通った光が一瞬横切ったことに、ふたりは全く気付いていなかった。