星の奇跡



静寂があたり一面にばらまかれ、腹を減らせた巨大な鯨が餌を飲み込むように、青黒い夜の闇が、すべてを覆い尽くす。

どのくらい時間が経ったのだろう。

触覚のおぼつかない足で階段を昇り切った時、鼓膜を切り裂く叫び声が聞こえたのを覚えている。


(デスピサロ様、勇者めを討ち取りました!)


デスピサロ。

忘れない。

少年は生涯、己れの全てを賭けて憎むであろう名前を、まるで枯れ果てた大地にもたらされた生きる希望の慈雨のように、深く心に刻み込んだ。

叫んで、叫んで、声を嗄らしてもなお叫んで、なにひとつ戻らないのだと知ったその時。

少年の声は死に絶えた。

網膜を浸食する眼前の光景が、うなされて飛び起きればただちに消える夢ではないのだと知ったその時。

少年の目は開かれていたが、なにも映さなくなった。

崩れて重なった瓦礫の山。

黒焦げてばらばらの骨と化した屋根。砕かれた壁。

火の渦に食らい尽くされた、かつての清き小川。

まっぷたつに裂かれて原形をとどめない、全てを見つめてまた沈黙する樹木の列。

魔物が放った瘴気は大気から溢れてしたたり、美しかった村の大地を、赤潮色の毒の沼地に変えた。

あの花畑さえも。

少年はゆっくりと足を進めると、手を伸ばして何かを拾い上げた。

毒の水を踏み、酸がじゅうっと靴のかかとを溶かしたが、気にもとめなかった。

すっかり白さを失い、無残に泥にまみれて汚れた、小さな羽根帽子。


(母さんがくれたの!一人前の、レディのしるしだって)


(言葉にして言って。可愛いって)


(わたし、あなたが好き。ほんとうに大好きだよ)


(ずっとずっといっしょだよ)


永遠とも思える長いあいだ、少年はそれを見つめつづけ、やがて両手で抱きしめた。

触れれば消えてしまう雪を抱くように、そっと掌に乗せて頬を寄せた。

そして懐に忍ばせると、代わりに、使い慣れたククリナイフを取り出した。

銀色の刃がきらめく。

これを突き刺せばすぐに自分も、大切な人たちのところへ行ける。

死が抗いがたい甘美な魅力となって、少年にまとわりつき、強く誘惑した。

力を失くした両手でふらふらと柄を握り、今まさに喉に突きたてようとしたその瞬間、


(忘れないで)


(あなたの存在は、わたしの存在そのもの)


(わたしはずっと、ずっとあなたの中にいる)


舌ったらずな喋り方が特徴の少女の優しい声が、少年をむせかえるような生の中へ引き戻した。

大好きな少女の言葉は、小さな頃からいつでも少年の、たったひとつの生きる道しるべだった。

少女の魂が共にあるというこの体を、自分ひとりの意思で勝手に殺すわけにはいかない。


ああ


ナイフを掴んだ手を下ろして座り込み、少年は泣いた。


ああ

ああ

どうして


もう逢えないけれど、ここに在るもののために、激しい声を上げてむせぶように泣いた。


そして、どのくらいの時間が経っただろう。

涙が乾いた時、

少年はゆらりと立ちあがった。

手にしたナイフを、静かに右の耳に突き立てる。

かぁんという硬い音が響いて、裂けた肌からピアスが弾け飛び、かつて花畑があったはずの毒の沼に、血に濡れた蒼い石が吸い込まれていった。

(わたしはあなたで、あなたはわたし。

いつも、いっしょだよ)

左耳にだけ宝石をはめ、ひとつはここに置いていく。

ここで結ばれ、ここで失われたふたりが、それでも共にあるあかし。



全てを失くした勇者と呼ばれる少年は歩き始めた。


自分を探すために。


ふらつきながら、少年は歩いた。

どこにいくのかもわからずに、硝子玉の瞳を前に向けて。


存在と存在のただなかを。


ひとつの体に、ふたつの魂を乗せて。



(なあ、シンシア)


(なあに)


(お前の存在だけが、俺を俺でいさせてくれる。


だからもしお前を見失っても、俺は俺自身であるために、この身体の持てる全部を使って必ずお前を探す)



暗闇の切れ間から朝日が射し初める。




少年はたったひとりで歩き続けた。





-FIN-


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