星の奇跡





----暗闇。



たったひとり置き去りにされて、一体どれほどの時が過ぎたのだろうか。


敷き詰められた漆黒の中、時折遠くからかすかに聞こえる破裂音と、低い天井からぱらぱらと落ちて来る、細かに砕けた小石の屑。

だがやがて、それも完全に止んだ。

わずかに動かした足先がなにかにあたって、金属質の不協和音が響き、場違いなほど甲高い、かしゃんというその音が、麻痺しかけた五感がまだ正しく機能しているということを教えてくれる。

冷えきった指先で床を探ると、それに触れた。

ナイフだ。

直感のひらめくまま自由に動かすことで、不思議なほど豊かな造形を生み出すことが出来た、愛情を超えて奇妙な執着すら抱いていた、大切なそのナイフ。

握り締めて緩慢に立ち上がると、扉と壁の隙間にこじ入れ、掛け金を外そうと試みる。

だが薄い刃に送った力だけでは、分厚い真鍮の塊を浮かせて落とすことなど、到底出来はしない。

頬の内側を噛み締めて、手首に今あるありったけの寧力を込めると、まるでなにかの合図のように不意に切っ先が軽くなり、重い番いがずんと音を立てて床に落ちた。




それが始まりだった。




すべての始まりで、同時にすべての終わりを告げる音だった。





少年は扉を開けた。


急激になだれ込む光に瞳が眩むのを堪えながら、崩れ折れそうな足を踏み出した。











視界がいつもより少しだけ高いのは、纏っている身体があの子のものだからだ。

踏みしだかれた草むらから拾ったのは、恐ろしく重い銅製の剣。

普段なら持ち上げることすら出来ないそれを、楽々と構えることが出来るのは、モシャスの呪文が外見だけでなく、内にたたえる力すべてを移し身に与えるという、なによりの証だった。

わたしは男の子の身体にうごめく得体の知れない力のうねりに、ふと怯えた。

じっと立っているだけで手足が揺さぶられるような、身体の中でなにかが暴れているような衝動が、意思とは全く関係なくせわしげにせき立てて来る。

(行け、行くんだ)

(動き出せ。戦え。

さあ、早く……!)

細胞に直接呼び掛けて来る、正体不明の声。

こんなもどかしい苛立ちを抱えながら、彼はずっと生きて来たんだろうか?

(時々、帰りたくて仕方なくなるんだ。

雲の向こう側から、誰かが泣きながらいつも呼んでる)


(俺、みんなと違うから)


(嫌だ)


(嫌だ……)


今になってようやくわたしは、どうして男の子が無口なのか、人と関わることを無意識に畏れるのかわかったような気がした。

いつも内なる叫びに、狂おしいほど追い立てられているのだと、誰に尋ねることが出来ただろう。

自分以外の誰にもそんなことは起きないのだと、もしも不用意に知らされたら、どうなってしまうだろう。

そうならないために、彼は消えない熾き火のように、絶えず湧き上がる感情に蓋をして、中で激しく暴れ狂うなにかから、懸命に耳を塞いで生きるしかなかったのだ。

「出て……来ては駄目だ……」

その時、崩れ落ちた瓦礫の中から声が聞こえた。

わたしははっと振り返った。

いつの間にか辺りは激しい火に包まれ、草も木も凶暴な深紅の炎にことごとく舐め上げられている。

「父さん!」

「馬鹿者!なぜ来た……!」

喉を絞り上げる叫びが、崩れて重なった石壁の下から響き、かろうじて開いたすきまから、血だらけの一本の手が伸びて来る。

それはいつも黙して釣竿を握っていた、緑の目の男の子の父親の手だった。

「なにをぐずぐずしているんだ。早く逃げろ!早く……!

お前はこの世界の希望。死んではならん!頼む……。頼むから、逃げてくれ!」

「父さん!」

わたしは地面にしゃがみ込んで片頬を擦りつけ、突き出された手を堅く握り締めた。

「父さん!今助ける!」

「余計な真似をするな!」

父親は鋭く叫んだ。

「早く行け。わたしのことはいいから、早く逃げろ!

いいか、この程度のことでめそめそするんじゃないぞ。

お前は勇者だ。男だ。

わたしの息子だ。

さあ、時が惜しい。迷うな!行け!」

わたしは歯を食いしばった。

奥歯がぎりぎりときしんだ。

父親の手を静かに離して、頷く。

「……大丈夫だよ、父さん。絶対に死なない。

あの子は……いや」

唇を微笑みの形に持ち上げる。


「俺は、必ず生きる」


瓦礫の下から覗いた鼻と口が、かすかに笑った。

「よく言った。


それでこそ、わたしの……」


だがわが子の名を呼ぼうとした声は、耳を轟する音にかき消された。

炎が地鳴りを呼び、ガラガラと瓦礫がなだれるように崩れ落ちる。

瞬間、衝撃にはじかれてわたしは後ろに転がった。

男の子の姿をしたわたしを突き飛ばした父親の手は、崩れ落ちた残骸の中に消えた。

「父さん!」

わたしは叫んだ。


「父さん!父さん!うわあああ!」


男の子の声は叫んだ。


だがもう、なにも聞こえない。


溢れる涙を手の甲で乱暴にこすると、わたしは泣きじゃくりながら起き上がった。

痙攣する膝を何度も叩いて感覚を戻し、血が出るほど唇を噛んで、全力で走り出した。
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