星の奇跡
ともすればふらつく足を必死で鼓舞しながら、苔むした階段を降りると、そこは地下室だった。
日常ほとんど人の出入りがない、薄暗い室内は、鈍色の埃とかび臭い匂いに燻されていた。
こんな状況になって、わたしは初めて気づいた。
花崗岩を使って塗り固められた、おかしいくらい分厚い壁。
まるで岩窟のように、不自然にうねりを付けてくりぬかれた、あまりに狭すぎる通路。
ここはただの倉庫なんかじゃない。
いつか訪れる危機のため、今まさに迫る終末のため、勇者である男の子を隠すために村人たちがあらかじめ用意していた、秘密の地下空間だったのだ。
「シンシア」
最深部の酒庫の扉の前に立っていたのは、緑の目の男の子の剣の師範だった。
「どうしたんだ。ここに来てはいけない。
わたしもすぐに上がるから、早く……」
言いかけて口をつぐみ、首を振る。
「いや。この村の掟に、エルフである君まで巻き込む必要はない。
今ならまだ間に合うだろう。逃げるんだ、シンシア。
逃げて生きなさい。幸せになるんだ」
「あの子のいない幸せなんて、わたしにはないの」
わたしは即座に言い返した。
「だから、わたしはわたしのやらなくちゃならないことをやるわ」
「……そうか」
師範の武骨な顔が、薄くほころんだ。
「幸せ者だな、あいつは」
「幸せなのかな」
わたしは呟いた。
「あの子はこれから、幸せになれるのかな。
大切ななにもかも全部をなくして、ひとりぼっちになってしまうのに」
「ずっとひとりぼっちだなんて、どうしてわかる?」
師範は温かい声で言った。
「失うということは、また手に入れる幸せを得るということでもある。
わかるだろう、シンシア。本人が望む望まぬに関わらず、あいつは磁石のように人々を引きつける。
闇を背負ったあいつの周りに、希望の光を宿した仲間が集まって来る。
その光があいつを蝕む闇を払う。
いずれ必ず、そんな未来が訪れる。わたしはそれを信じているよ」
「うん」
わたしは頷いた。
そうだ。
あの子が放つ輝きは、まるで蝶をいざなう花のように、あらゆるものを引き寄せる。
そしてわたしも、そのなかのひとつだった。
あの子という大輪の花を愛した、ちっぽけで他愛ない一匹の蝶だった。
「師範様、あの子は」
「中にいるよ。だがシンシアは見ないほうがいい。
あまりに暴れるのでね、悪いと思ったが腹に拳を入れて、手足を縛ってある。
しばらく気を失っていたが、今は目を醒ましているようだ。
……もう、暴れる気力もないみたいだが」
「わたし、入ってもいいですか」
「どうしてもと言うのなら、構わない」
師範は静かに言った。
「だが、出て来る時は必ずひとりで。
そして出て来たらすぐに、扉に掛け金をかけること。いいかい」
「はい」
師範は重い真鍮の掛け金の片方を外して、扉をそっと押し開け、目で促した。
わたしは黙って中に足を踏み入れた。
がちゃりという扉が閉まる音。
瞬間、心臓が鼓動で張り裂けそうになった。
静寂と暗闇の中、男の子がうずくまっている。
つめたい石の床に座り込み、片方だけ立てた膝の上に顔を埋めて。
力なく前に垂らされた両手首は、縄できつく縛られ、よほど抗ったのか、皮膚は擦り切れて同じ形の赤い線を象り、鮮血が滲んでいる。
両足首にも同じ縄がかけられていたが、こちらはもっと激しくもがいたらしく、もうほとんどほどけかけていた。
体がちぎれるような哀しみが押し寄せる。
わたしは必死で嗚咽をこらえた。
泣いちゃ駄目だ。
泣いちゃ駄目だ。
「大丈夫?こんなに血が出て、すごく痛かったでしょう。
待ってて、すぐに外すから」
わたしは駆け寄って、懐から男の子のナイフを取り出すと、急いで縄を切った。
だが男の子の腕は動かず、そのままだらりと垂れていた。
血の気を失った青白い掌が床に落ちる。
蔦のようにしなやかで、温かかった手。
この手を絡めて触れあったのは、つい昨夜のことなのに。
わたしは身を丸めたままの男の子を、抱えるように抱き締めた。
「痛かったね。でも、もう大丈夫だよ。
あなたが痛い思いをすることなんて、もうなんにもないから」
「……上で、なにが起きてる?」
伏せた顔のすきまから、硝子のように抑揚のない声が洩れた。
叫び尽くしてただのひとつも報われぬことを知った、ひび割れて枯れた声だった。
「魔物がどうして、俺を探す?」
「それは……」
「教えてくれ、シンシア」
男の子は顔を上げた。
わたしは胸をつかれて、思わず目を逸らした。
たった数刻で、人はこれほど憔悴することが出来るのかというほど、緑の目の男の子の美しい顔は生気を失い、瞳は落ちくぼんで、表情が全くなかった。
「俺のせいなのか」
男の子の腕がのろのろと持ち上がり、わたしの肩を掴む。
「シンシア、教えてくれ。頼む」
「……」
「俺のせいで、こんなことになったのか。そうなんだな」
「そうじゃないわ」
「俺が……俺が、みんなと違うからなのか。
俺が異端だから。
俺が、勇者なんて呼ばれてるから」
男の子の瞳にようやく光が戻る。
だがそれはもう、決して拭うことの出来ない、底無し沼のような深い絶望の光だった。
「俺は、誰なんだ?」
彼は繰り返した。
翡翠色の瞳の端から、静かに涙がつたい落ちた。
「ずっと暮らして来た父さんと母さんの、子供じゃなかった。
じゃあ俺は、一体誰なんだ?どうしてここにいるんだ?」
「泣かないで」
「どうして皆、俺を勇者って呼ぶんだ?
勇者ってなんだ?俺は……どうして勇者なんだ?」
男の子はわたしにしがみついた。
「嫌だ」
なにかに触れていないと自分が自分でなくなってしまうように、必死でわたしをかき抱いた。
「嫌だ。俺は勇者になんかなりたくない。
俺は、みんなと同じがいい」
「ねえ、泣かないで。お願いだよ」
「シンシア、頼むから俺を置いて行かないでくれ。
俺も一緒に行く。俺も戦う。
早く助けに行かないと、母さんが、父さんが……!」
男の子は泣いた。
わたしを抱きしめて泣いた。
多分、彼は生まれてからこれまで一度も、本当の意味で泣いたことがなかったのだ。
なにを考えているのか解らないなんて、言葉にしなくちゃ解らないなんて、どうしてわたしは言ってしまったんだろう。
緑色の瞳に集めた光全部で、まだ少年らしさを残した、細い身体にたたえた命ぜんぶで、
こんなにも彼は「ここにいたい」と、全身全霊で訴え続けていたのに。
「あなたは異端じゃない」
わたしは男の子の涙を指で拭うと、そっとくちづけた。
「忘れないで。あなたは異端なんかじゃない。
あなたは奇跡なんだよ。
この星がすべてを託した奇跡。
月も星も太陽も、この星を巡るすべての光が、あなたの親であり、兄弟なの。
だからあなたは、どんな時もこの星に守られる。
けっしてひとりじゃない。あなたにはいつもこの星のすべてが共にある。
わたしの魂は、いつもあなたと共にある」
わたしは笑った。
「あなたといっしょに遊べて、楽しかった」
両手を組み合わせて、たったひとつだけ覚えた呪文を口にする。
体の内側で閃光が弾け、真っ白な霧が渦となって全身を包み込むと、霧の砂塵が溶けて消えうせた時、わたしの体は、男の子と同じ形になっていた。
緑の目の男の子の瞳が凍りついた。
最後に見る顔がこんなふうなのは、本当はすこし辛い。
わたしはいつだって、男の子の笑った顔が大好きだったから。
(でも、だいじょうぶ)
(シンシア、お前は俺のだ)
(お前の中にきれいなものがたくさんあるのは、もう知ってる)
(俺は、お前の言葉が聞きたい)
(お前が好きだ)
(ずっと一緒だ)
あなたがくれたたくさんの言葉は、星よりも輝く宝石となって、消えずにわたしの心に焼きついているから。
「さよなら」
男の子の姿をしたわたしは立ち上がって、扉の向こうに足を進めた。
「……シンシア。
シンシア……!」
男の子の声が、扉が閉まると同時に音を失った。