星の奇跡


大切に温めた幸福が引き裂かれ、無残に散らばるのを、わたしはこの目で見た。

緑の目の男の子の叫びは、噴き出すような血を滲ませていた。


「母さん!母さん!


離せ!畜生!



離せーーーーーっ!!」




男の子は絶叫した。

全身の力を絞り腕をばたつかせると、振り上げた肘が師範の顎や頬を、何度も何度も打ちつける。

だが師範は決して縛めを解こうとはしなかった。

残った村人たちが腕を貸し、少年の細い体はまるで荷車に乗せる積み荷のように、軽々と持ち上げられた。

「止めろ!離せ!」

体をねじって暴れる男の子の目が、ふいにわたしを捉える。

「シンシア!」

男の子は必死で腕を伸ばそうとした。

「シンシア!シンシア!」

今まさに命を絶たれようとする獣の、悲痛な咆哮。

それははっきりと、助けを求める目だった。

わたしは思わず、揉み合う人の塊にすがりつこうと足を踏み出しかけて、


(駄目よ!)


鼓膜を突き刺す激しい叱咤に、平手打ちを食らったように体を硬直させた。


(ああ……!)


(お星様、どうして)


(シンシア)

(あの子はね、特別な子なんだよ)

(輝く太陽や海のように、この世界にとってかけがえのない子)

(わしらは己れのすべてを捨てて、禁断の子供を守らなくちゃならない)

(だってあの子は、自分はなにもしちゃいないのにたったひとり、世界を担う勇者にさせられるんだから)

(ごく普通の……ごく普通の子供なだけなのに)

(世界を救う勇者だって祭り上げられて)

(禁忌を犯して生まれた罪深い存在だから)

(禁断の子供だから)




(……シンシア、お前が好きだ)


緑色の瞳がはにかんで笑う。


(お前だけなんだ、俺を俺として見てくれるのは)

(お前のことは俺が絶対、泣かせたりしない)

(初めてお前を見つけたあの時から)


(お前は俺のだ。俺の、たったひとつだ)


愛しい囁きがこだまする。


けれど空から降って来た言葉が、急流のようにすべてを押し流した。

(星の奇跡を守るのよ)

(それがわたしたち、エルフの役目)

(シンシア、あなたの役目)

(……そうだわ)

踏み出そうとした足が止まる。

わたしは上げかけた手を下ろした。

(忘れてたよ、お母さん)

(あんまり幸せだったから)

(あんまり毎日が、いとおしくてならなかったから)

(わたしはわたしのぜんぶで、あの子を守らなくちゃいけない)


(だってそのために、わたしは生まれて来たんだから)


ぴくりとも動かず立ち尽くしていると、男の子の瞳が絶望で光を失った。

「シンシア……お前……」


その時だった。


「うわあああ!」

心臓を握り潰されるような凄まじい絶叫が、空気をつんざいた。

いつの間にか、硫黄に似た鼻を刺す強い臭気が辺りに立ち込めている。

村を隠すように規則的に生えた、常緑樹の群れが轟音を立てて割れる。

しゅう、しゅう、という邪悪な鼻息。

木々を荒々しくなぎ倒し、石壁を粉々に砕き、吹き上がる灰色の土煙をまといながら、

黒々とした毛に覆われた巨大な影が村人のひとりを口にくわえ、邪悪な紅い目でこちらを睥睨していた。

しかも同じ姿が、茂みの向こうで無数に蠢いている。

(魔物……!)

冷たい恐怖が背中を這い上がる。

黒い影は喉を鳴らし、まるでまずい餌を捨てるように動かなくなった口の中のものを吐き出した。


(チ ガ ウ……)


(コイツ ジャナイ)


血にまみれた牙の隙間から、ゴボゴボと不吉な呻き声が洩れる。


(ユウシャハ ドコダ)


(ユウシャヲ コロセ)


(メザワリナ ユウシャヲ コロシテシマエ)


(ドコダ)


(ドコダ……)


耳にしたとたん、緑の目の男の子の顔から表情が抜け落ちた。

「……俺を、探してるのか?」

「早く!!」

座り込んでいた男の子の母親が、不意に金切声を上げた。

「お願いだよ!早く連れて行っておくれ!」

「聞いたか?母さん。あいつらは、俺を」

「行け!急げ!」

ガラハドが叫ぶ。

村人たちは男の子を担いで走り始めた。

「待ってくれ!母さん!シンシア!


待っ………」



だが男の子はもう、叫びを上げることも出来なかった。

緑の目が焦点を失い、声が足音にかき消されると、人影が砂に沈み、村人たちの姿は地下に消えた。


男の子はわたしの目の前から消えた。


「神様」

涙に濡れた母親の唇から、震える声が雫のようにこぼれ落ちた。

「どうか……どうか、あの子をお守りください。

お願いです、神様」

「エレッタ」

傍らにいた父親が、妻の名を呼んだ。

沁み入るような労りと、優しさのこもった声だった。

「エレッタ、なにも心配することはない。あいつはお前の息子じゃないか。

あいつの魂には、お前が磨いた強い輝きが宿ってる。

そしてなによりも、お前が育てた「耐えるこころ」が。

あいつは甘い薬をたくさん飲んだろう?あんなにおいしそうに、誰よりも嬉しそうに笑って」

「そうだね」

男の子の母親は涙を拭いて笑った。

「きっと大丈夫だね」

笑って立ち上がった。

その手には銀色の剣が握られていた。

「じゃあ、あたしたちは最後の仕事を始めるとするかね。

少しでもやつらの気を逸らして、あの子を助けなきゃ。どこまでうまくいくかわからないけど」

「……うまく行くわ」

わたしが言うと、ふたりは驚いたようにこちらを向いた。

「シンシア?」

「あの子は必ず助かる。安心して、父さん、母さん」

にっこりと笑ってみせると、わたしは地下室に向かって走り出した。

その時、なにかの予兆のように風がざわめいて、頭に乗せた羽根帽子が、ふわりと花畑に落ちる。

一瞬ためらったが、わたしはそのまま振り返らずに進んだ。


行かなくちゃ。


あの子のもとへ。
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