星の奇跡
「………」
ガラハドはわたしが差し出した瓶に手を伸ばそうともせず、太い眉を厳しく寄せて、石のように押し黙っていた。
瓶の中で赤い血が揺れる。
「……わ、わたしは」
沈黙に責められているような気がして、わたしはおずおずと口を開いた。
「あの子に助けてもらって、この村でみんなといっしょに暮らすようになってから、いつももらってばかりなの。
食べるものも、着るものも、体を横たえて眠る場所も。
この命さえ、あの子にもらった。死んでいこうとしていたところを、救ってもらった。何百回ありがとうを言っても足りないわ。
だけど……わたしには、返すものがなにもないの。
みんなにもらったたくさんの優しさを、どうやって返したらいいのかわからないの」
言葉を切ると、同時に涙がつうと頬を伝い落ちた。
透明なしずくが瞳から離れたとたん、ぱきんと音を立てて深紅のルビーに変わる様を、ガラハドは驚いたように見つめた。
「い、痛いのはやっぱり怖いから……ルビーにしようかと、ほんとうは思ったけど」
わたしは指で涙を拭いながら言った。
「でもだめだったよ。わたしの涙のルビーは、掌に乗せるとすぐに割れてしまうの。
きっとすぐに泣いちゃうから、涙が軽いんだね。
だから綺麗なダイヤモンドみたいに、どうしても硬く、強くならないんだわ」
「シンシア」
ガラハドは武骨な腕をそっと伸ばすと、わたしの手から瓶を取った。
「ありがとう。これは受け取るよ。さあ、だからもう泣きやみなさい」
「……うん」
「こんなにたくさんの血、たいそう痛かったろうに。
あんたみたいな女の子が自分を傷つけるなんて、どんな理由だろうと絶対にあっちゃならんことだ」
ガラハドはため息をつくと、手にした瓶を不思議な畏敬に満ちた目で見つめた。
「飲んだ者に不老不死をもたらすという、妖精エルフの血。
それがある種の人間にとって、どんなに途方もない価値を持つのか、ただの鍛冶職人のわしも知っている。
だがね、これだけはわかって欲しい。シンシア、命に値段はつけられないんだ。
命を納める体も、それを作る血や骨のひとかけらですら、決してお金に代えられるものじゃない。
欲にかられた外界の人間は、みな勘違いをしてるみたいだが、そもそも命はわしら自身のものじゃないんだよ。
動けと念じれば手足が動く。
思いを喉に送れば言葉に変わる。
たったそれだけの自由を与えられただけで、みんなすっかり思い上がって、いつからか自分の体は自分のものなんだ、だから好きにしていいんだって思うようになっちまった。
だけどほんとはただの借り物、少しも自由になんて出来やしないのにな。
だって、髪の毛に伸びるなって言えるかい?腹よ減るなって命じられるかい?
命とは、それ自体が神の分身として存在する、太古の海から生きる聖なる魚で、わしら人間の魂なんてものは、それにくっついてはなんとかして恩恵をわけてもらおうと、
体をこすりつけては懸命に鱗を磨きたてる、ちっぽけで取るに足らないコバンザメに過ぎないのさ」
言葉が呪文のように、耳の奥で溶けていく。
「なんて、つい偉そうなことを言っちまったが」
ガラハドは饒舌を恥じるように、浅黒い顔をくしゃっと崩した。
「わしにも妻がいる。目の中に入れても痛くない息子がいる。
愛する者のためなら、この体を百ぺん切り刻まれたって耐えることが出来る。
いつだってそう思ってるからね、あんたの気持ちはわからなくもないんだよ」
「ガラハドさん」
「だが、この村はそのすべてを超えた特別な場所だ。
わしはあの日、村人みんなで坊主の耳に穴を穿った冬の日に、すべてを捨てて禁断の子供を守る守護の誓いをもう捧げた。
体が枯れるまで生きられないのはすこし辛いが、自分はなにもしちゃいないのにたったひとり、
世界のすべてを担う<勇者>にさせらせるという、重い罰を負う坊主にくらべれば、どんなにかましさ。
なあ、だからシンシア。あんたの気持ちが詰まったこの瓶は確かに預かる。
だが命は自分のものじゃないってこと、そして終わりが来るからこそ輝くんだってこと、
それを忘れないためにも、これはここにずっと置いておくことにしような」
「……ありがとう」
また泣き出しそうになるのを懸命にこらえて、わたしは笑った。
泣いちゃいけない。
だって、ありがとうで泣くなんておかしい。
お礼を言う時はいつだって、お日様みたいな笑顔じゃないといけないって、母さんがいつも言ってたから。
「どうか素敵なピアスを作ってやってくれ、シンシア」
ガラハドも笑顔を返した。
「あの坊主にとって、両耳に嵌めたピアスはなにより特別な意味を持つんだよ。
あれは見えない翼が背中に半分だけ残ってるあの子を、地上にとどめ置くための錨だ。
悲しいが、あの子はいつか必ず独りきりになるだろう。
すべてを失って独りきりにされたその時、生まれた意味をようやく知るだろう。
世界の仕組みを知り、天空と地上の間にたったひとり、垂直に立つことの出来る自分の役目をね」