星の奇跡
走る。
まるで人間の手から逃れて谷底へ落ち、緑の目をした男の子と出会ったあの日、あの時のように全力で。
自分のものじゃない宝物を、勝手に持ち出してしまったその夜。
少しでも足を止めると、あの子が「俺のだぞ」って追いかけて来そうな気がして、手足をめちゃくちゃに振り、息を切らしながら、わたしは振り向かずに花畑まで走った。
ようやく慣れた柔らかな寝床にたどり着くと、倒れるように体を滑り込ませる。
いつもならとっくに眠りについているのに、いきなり体を揺すられて花たちはひどく迷惑そうだ。
わたしは深呼吸して息を整えると、ふらふらと起きあがった。
急がなくちゃ。
(今夜は月が出ていないから、時間が全然わからないよ)
でも、早くしないと間に合わないってことだけはわかる。
わたしは草の上に瓶を置いて、右手にナイフの柄を握りしめた。
ククリと呼ばれる種類の、刀身がわずかに湾曲した生活雑事用のナイフだ。
いつからだったろう、気づくとあの子はこれで木を彫り、人形や笛を作り、時には大きな木片を使って剣や盾さえも作った。
おそるおそる鞘から柄を抜くと、現われた小さな銀の刀身が、暗闇の中できらっと閃く。
柄はすすけていたけれど、刃はこまめに手入れしてあるらしく、よく研がれた刀身は三日月型の弧を描いて美しく尖っていた。
握り締めた柄にうっすらと残る、男の子の指の跡。
見つめると胸がちくり、と初めて痛んだ。
(知ったら怒るだろうな……きっと)
脳裏に浮かんだ切れ長の緑色の瞳が、怒りで激しく揺らめいた。
(ごめんね)
でもなんにも持たないわたしには、他の方法がないから。
身につけている服の袖をまくり、腕にナイフを押しあてて、ふとわたしは考え直した。
(目につく所じゃ、あの子にすぐに気づかれちゃうかもしれないわ)
母さん手製のトーガの襟ぐりを引っ張って、左肩だけをていねいに抜く。
夜気にさらされる白い肩先。
かつて遠い星からやって来たというエルフの肌は、太陽の光を吸い込まないように出来ていて、どんなに厳しい陽射しの下にいても決して日に焼けることはない。
リンゴをむくようにナイフを力強くあてると、小さく息を吸い込んで、わたしは目を閉じ、ためらいなく刃を肌にすべらせた。
(痛い……!!)
冷たい氷をぎゅっと押しつけられたような、心臓が縮む感覚。
髪の毛の先まで鋭い痺れが走って、それがすぐにかっと焼けつく熱さに変わる。
白い肌に引かれた赤い線。
深紅の蕾がみるみるふくれ上がる。
ナイフを離すと、盛り上がった血が開いた傷口からあふれ、やがてひとすじ、ふたすじと真っ赤な線を描きながら流れ落ち始めた。
わたしは唇を噛んで痛みをこらえると、ナイフを置き、瓶を手にとって傷口にあてた。
透明な硝子の中に赤いしずくが落ち、真新しいインクのように底に溜まっていく。
どく、どくと脈が打ち、電流が駆け抜けるような痛みが走る。
(へいき、こんなの)
わたしはほほえんだ。
(あの子にピアスをあげたい。誕生日プレゼントをあげたい)
(あの子の笑った顔が……喜ぶ顔が、見たいの)
(そのためならわたしは、なんだって出来る)
あの子のためなら、わたしはなんだって出来る。
それから一体、どのくらいそうしていただろう。
血が止まりそうになると、急いでもう一度肌にナイフをあて、そのたびに小さな悲鳴をかみ殺し、
気づくと瓶の半分くらいは、摘みたてのクランベリーのような鮮やかな赤で埋めつくされていた。
(これだけあれば、十分だわ)
わたしは満足して立ち上がった。
足を伸ばしたとたん、こめかみが揺れて視界が狭まり、くらっと目眩が襲う。
急に血が減ったからだ。
(大丈夫よ、シンシア)
言い聞かせるように呟いて、わたしは歩き始めた。
(ごはんをたくさん食べれば、血はまた増えるもの)
体の中のものは、全部使い切りさえしなければ、お星様がちゃんと元に戻してくれるはずだから。
その足でわたしが向かったのは、村外れの鍛冶職人の家だった。
急いだ甲斐あって、この村唯一のガラハドという名の鍛冶職人は、なんとかまだ起きていた。
けれどもう一日を終える準備は済んだらしく、鉄を溶かすためのかまどの火は落とされ、鎚も鉋も片づけられて、作業台のランタンは、油が抜かれて今にも火が消えようとしていた。
「おや、シンシアちゃん」
何千度という灼熱の炎を焚いて、巨大な鎚で鉄を打つ鍛冶屋のガラハドは、筋骨逞しい大柄な体躯の持ち主で、太い首に乗った浅黒い顔だけがアンバランスに優しく、わたしを見て笑った。
「どうしたんだ、こんな遅くに。いつもならもうとっくにぐっすり寝てる時間だろう。
さては怖い夢でも見て眠れなくなったか。魔除けの鏡を持って行くかい」
「ううん、違うの」
わたしはぎこちなく切り出した。
「ガラハドさん、わたし、今日は欲しいものがあって来たんです」
「なんだい。エレッタのところの坊主の新しい剣なら、ちょうど今朝頼まれて、明日打つつもりだが」
ガラハドが男の子の母親の名前を口にしたので、わたしは急いで首を振った。
「今日は母さんからの頼まれものじゃなくて、わたしが欲しいものなの」
「なんだ、そうか。だったらやっぱり鏡かい?
年頃の女の子ってものは、命の次に鏡が大事なんだってよく聞くがね」
「違うわ」
わたしはわずかに顔を歪ませて言った。
トーガで隠した左肩の傷が、ふたたび痛み始めていた。
「ブルーサファイアの石が欲しいの。このくらい……スモモの種くらいのものをふたつ。
それから金と銀の差し糸に、石に通すのに使う真鍮の止め金も」
「装飾品でも作るのかい?」
「うん、ピアスを」
わたしは青ざめながら笑った。
「絶対にないしょだよ。あの子の誕生日のプレゼントだから」
「おお、坊主にあげるのか?」
ガラハドは破顔した。
「そりゃあ、たんと喜ぶだろうなあ。
なんたってあの無愛想な坊主が、我を忘れちまうほど特別大好きな、シンシアちゃんからのプレゼントだ」
「とくべつ?」
わたしは目を見開いた。
「違うよ。そんなこと、あの子は一度も言ったことないもの。
あの子のとくべつは剣やご飯や木彫りで、わたしのことはそうじゃないと思うわ」
「なんだ、気づいてないのかい、シンシアちゃんは?」
鍛冶屋のガラハドは大きな声をたてて笑った。
「あの坊主はね、しょっちゅう稽古の途中で、花畑にいるあんたに見とれてるよ。
剣を振り上げた手を止めて、楽しそうに花を摘むあんたや、鳥を呼んで綺麗な声で歌うあんたを、
まるで絵本の中のお姫様でも見つけたみたいに、まぶしそうな顔でじいっと見てる。
それでよく師範代にどやされちゃ、罰として素振り百回だの千回だの、させられてるみたいだけどね」
「……そ、そうなの?」
わたしはまばたきした。
(とくべつ)
(わたしが、あの子の?)
言葉が頭に届くと、不思議と傷の痛みがすうっと遠のいて、代わりに温めた石をあてたような、じんわりした熱が昇る。
(あんたに、いつも見とれてるよ)
(まぶしそうな顔で、じいっと)
あの子がわたしを見てる。
目を合わせたとたん、人形みたいに美しい顔をしかめて、いつもぷいとそっぽを向くあの子が、わたしを?
「それじゃシンシアちゃんは、今夜はそのピアスを作るために、石を取りにここに来たってわけか………」
その時、ガラハドの武骨な顔に浮かんでいた笑顔が、煙のようにすっと消えた。
「はい。代金としてこれを」
手に持っていた瓶を、わたしが目の前に差し出したからだ。
「ガラハドさん、これをもらって下さい。飲めば不老不死を授かるというエルフの血。
きっと高く売れるし、とても役に立つはず。
だからわたしに、どうかあの子のピアスを作るための道具をくれませんか。
わたしは自分の力で手に入れたものを、心を込めてあの子に贈りたいんです」