星の奇跡



そして、あの子にピアスを贈ろうと決めてからさらに数日が過ぎた。

あっというまに誕生日は、いよいよ明日。

(どうしよう)

オレンジ色の海のような夕暮れが、あたり一面を美しい茜色に染める。

いつものように花畑に寝そべりながら、わたしは途方に暮れて天を仰いだ。

(悩むだけで何日も過ぎちゃって、まだなんにも用意出来てないよ)

ブルーサファイア、抜けるように蒼い夜明けの空の石。

小さな頃からあの子の剣を打っている鍛冶職人のところなら、きっと鉱石や、ピアスを作るために必要な道具も全て揃っているだろう。

ただ問題は、どうやってわたしがそれを手に入れたらいいのかということ。

そもそもこの村には、お金という概念がない。

外の関わりを一切断ち、限られた世界でひっそりと生きる村人たちの暮らしは、どちらかと言えばエルフのそれに近かった。

彼らは自分達で全てをまかなうため、畑で作物を作り、井戸を堀り、鉄を打ち機を織って、それを村人同士で仲良く分け合い、物々交換を繰り返して生活している。

どうしてもここで作ることの出来ない塩や黒胡椒、絹の衣なんかを手に入れる時だけ、村の男達が丹念に変装し、夜闇を縫って街へ出掛けて行く。

それも決して足が着かないように、すぐ近くの国ブランカではなく、交易が盛んで世界中の商人が行き交う、大国エンドールまでわざわざ赴くという念の入れようだ。

お金の存在しない人間の世界。

ここに来るまではそんな場所があるなんてこと、思いもしなかった。

人間はお金にとりつかれた魔物で、彼らに巣くった黒い欲望が、わたしたちエルフの命を喰い荒らすと信じていたから。

あの子に連れられてここへ来て、母さんや優しい村の人たちと出会って、初めてわたしは、お金に魂を奪われない人間もいるんだって知ることが出来た。

温かくて優しい、日だまりみたいな心を持った人間だってちゃんといる。

それを教えてくれたあの子のために、精一杯の感謝を込めたプレゼントを贈りたい。

母さんやみんなに頼むのではなくて、ちゃんと自分の力で手に入れて作ったもので。

(……そうだわ)

その時ふと、頭の中に風が吹き渡ったように、ひとすじの閃きが降りて来た。

どうして気付かなかったんだろう。

わたしはちゃんと持ってる。


わたしだけが持つ特別な価値のあるものを、ちゃんと。









「こんばんは、母さん」

その夜は新月で、共演出来ないのがつまらないのか、星たちも揃って影をひそめ、空には見渡す限りぬば玉の暗闇が広がっていた。

わたしは緑の目の男の子の家の扉を開けた。

前髪を煽る湯気と共に、オリーブが焦げる香ばしい香りが鼻に飛び込んで来る。

「あら、おかえり!シンシア」

鍋を揺すっていた男の子の母親が、こないだ見せた慟哭なんて嘘のように笑った。

「どうしたのさ。いつも早寝のあんたが、こんなに暗くなってもまだ起きてるなんて。

ひょっとして、さっきの夕飯が足りなかったのかい?

今ちょうどあの子が食べてるところだから、よかったらもう一度食べたらいいよ、一緒に」

テーブルの上に並んだ料理の数を見て、思わずわたしは声をあげた。

「こ、これ、全部ひとりで食べてるの?」

「悪いか」

咀嚼を止めてすぼめた唇から、こもった声がこぼれる。

「そういうお前だって、二回目を食べに来たんだろ。

残ってるやつ、ちょっとだけなら分けてやってもいいぞ」

たくさん詰め込んだ頬が冬ごもり前のリスのようにふくらみ、瞳が涼しげなぶんだけ、わざとおどけた顔を作っているみたいだ。

テーブルにつき、並んだ料理をすくい取るようにして食べているのは、緑の目の男の子だった。

大皿に盛られたあたたかな料理は、どれももう半分以上減っている。

芋と肉を山羊の乳で煮込んだシチュー。たっぷりの挽き肉と酪を、エンマ小麦の皮で包んだクレープ。

ヒヨコ豆とヘンルーダという蜜柑の壺煮、オレガノやタイム、バジルを母さん手製のハムと焼いた香草焼き。

それからクルミのパン、リンゴのジャムと、カゴに積み上げた香り高い初夏の果物。

「あ!」

いちばん端に置かれた、もうほとんどからっぽの皿に乗っているわずかな食べ残しの一片を見て、わたしは目を見開いた。

「それ、ポテトのパイ。わたしが手伝って作ったんだよ、母さんと一緒に!」

「知ってる。だからいちばん最初に食った」

男の子は銀のフォークでヒヨコ豆を突き刺して、ぱくりと口に放り込んだ。

「うまかったけど、ところどころ固かったぞ」

「えっ!ど、どうしてだろ。裏濾しが足りなかったのかな」

「それにどうも、さっきから腹が痛い。シンシア、お前ちゃんとジャガイモの芽は取ったのか」

「と、取ったよ……多分」

にわかに不安になって、わたしは男の子の母親を振り返った。

「ねえ、取ったよね。母さん」

「当ったり前だろ!」

母親は怒鳴った。

「一生懸命作ったシンシアをからかってるんじゃないよ。もし腹が痛いっていうんなら、お前の単なる食べすぎさ!

いいかげんで終わらせて、さっさと風呂に入っておいで!」

「やだよ。まだ食いたいんだから、いいだろ」

男の子は不服そうに言った。

「腹も減るさ。こんな遅くまで柄に重りをつけた長剣で、上段、下段突きの繰り返しを千回ずつだぞ。

なんでだかわかんねえけど、最近の稽古の内容はめちゃくちゃだ。

このままだといつか、俺の掌は剣とくっついて離れなくなるな」

「そのくらい鍛えといてくれた方が、あたしたち女は安心だよ。いざという時はあんたに守ってもらうんだからね」

「母さんがもう少し痩せたらな。今のままじゃ何万回剣を振ったって、俺には抱えられねえ」

「なんだって!もういっぺん言ってごらん!」

男の子は笑いながら椅子を引いて立ち上がると、わたしを見た。

「お前、ほんとに二回も飯を食うのか。

俺が食っちまったから、もうあんまり残ってない。また作ってもらうか」

「ち、違うよ。今日はごはんを食べに来たんじゃないから大丈夫」

「……ふうん」

男の子は小さく首をかしげたが、「それじゃあな」と言うと、そのまま奥の浴室に向かって行ってしまった。

「なんだか今日は、ご機嫌だね」

「そうみたいだねえ」

母親は空いた皿を片づけながら笑った。

「ここのところ、ずいぶん剣の稽古を頑張ったみたいだからね。

あんなふうにきついって不満をもらしても、それをやり遂げる事の出来た自分が、なにより誇らしいんだよ。

あの子の願いは誰よりも強くなりたい、それだけだからね。

人見知りは心配だけど、負けん気は誰より強いし、体つきもうんと逞しくなったし、あれならきっとひとりになっても大丈夫、ちゃんと生きていけるはずさ」

「母さん……また、そんなこと言ってる」

「おっと、失言」

母親は大仰な仕草で口を押さえてみせた。

「ところでシンシア、あんたは一体どうしたんだい。

ひょっとして今日も、なにか相談があるっていうのかね?」

「うん。あのね、じつは瓶を一本もらえないかと思って」

「瓶?」

わたしは頷いた。

「明日の誕生日に、ケーキに乗せるジャムを作るのよ。だから花の蜜を集めたいの」

「この季節にかい?もう夏が近い。甘くておいしい蜜なんて取れやしないよ」

「いいの!煮詰めるときに、たくさんお砂糖を混ぜるから」

「そう?それじゃ」

母親は戸棚を開けると、きれいに洗った硝子瓶を出してくれた。

「うーん、これだと少し大きいかねえ」

「これがいいわ!」

わたしは微笑んだ。

「どうもありがとう、大事に使うね。

そ、それから……ちょっとあの子と話したいことがあるから、わたしもお風呂場に行ってもいいかな」

「ああ、それはかまわないけど」

母親は明らかに当惑した様子だった。

けれどわたしはかまわずに、猫のように横をすり抜けて浴室へと向かった。

(母さん、ごめんなさい!)

嘘をついて、ごめんなさい。

だけどどう考えても、チャンスは今しかないから。

決して音を立てないように気をつけて、わたしは浴室に続く扉を慎重に開けた。

狭い脱衣用の土間に並ぶのは、樫の箪笥と壁に吊るした木綿の衣、たくさんの香炉、練り石鹸に香油、乾燥ハーブの束。

奥に穿たれた入口の麻のカーテンの隙間から、良い香りのする湯気がもうもうと石の床に垂れこめている。

ざあんという、水の塊が床を叩く音。

扉の向こうにあの子がいる。

一糸まとわぬ姿で。

思ったとたん、以前目にした白鳥のように美しい背中が、瞼の裏にはっきりと浮かび、心臓がばねのように跳ねて、身体じゅうの血が逆流した。

(お、落ち着いて、シンシア!)

わたしは必死で自分を叱咤した。

今考えなくちゃいけないことは、そんなことなんかじゃない。

忍び足でしゃがみこむと、そろそろと床を這って麻のカーテンに近づく。

わたしは震える手を伸ばして、あの子が脱ぎ捨てたチュニカを掴むと、大急ぎで懐を探った。

(きっとあるはず……。あの子はいつも持ってるもの!)

そしてそれは、あっけないほどすぐにみつかった。

あの子の大切な宝物。

もうずいぶん使い込まれて黒ずんだ、木彫り用の小さなナイフだ。

(ごめんね、貸して下さい!)

わたしは目をぎゅっとつぶり、浴室に向けてきつく両手を合わせた。

(ごめんね、本当にごめんね……!あとで必ず返すから!)

それは生まれて初めてわたが犯してしまった、小さな、そしてとても大きなたった一回きりの罪。

でも不思議なくらい、その時は少しも罪悪感を感じなかった。

自分はこれから正しいことをやるんだって、澄んだ鏡を覗くように堅く信じていたから。

わたしは素早くそこを抜け出ると、何食わぬ顔をして母さんにあいさつし、まるで逃げるように素早く、大好きなその家を出た。
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