星の奇跡
雪色の羽根帽子を頭に乗せるレディになって、初めて知ったことがある。
たとえいつやって来るのかすらわからなくても、大好きな人が訪れるかもしれない期待に胸をときめかせて過ごすのと、
そうじゃないのとは、流星の戯れる空とカラスが隠れる闇夜くらい、まったくの大違いだってこと。
初めて知る胸の痛みに、足元がふるえるような不安を感じながら、それでもわたしはその割れてしまったたったひとつのたまごのかけらを、目をそらさずに見つめた。
お星様。
あの子が好きです。
「シンシア、ほら、しっかり手伝っとくれ!」
「……は、はいっ?」
わたしははっとした。
樫の木造りのテーブルの向こうから、男の子の母親が呆れたようにこちらを見つめている。
「大丈夫かい?ここのところ、いつもぼおっとしてるみたいだけど」
「う、うん!ごめんなさい」
わたしはあわてて笑顔を作った。
「で、なにを手伝えばいいんだっけ?」
「ポテトのパイを作るから、皮をむいて欲しいって言ったんだよ」
「あ」
目の前に置かれた銀のボウルに、まだ湯気を上げる茹でたてのジャガイモの山。
わたしは顔を赤らめた。
「そ、そうだったね。ごめんなさい」
「……まったく」
男の子の母親は肩をすくめた。
「そんなに何も手につかなくなるほど、あの子にすっかり心を奪われちゃったってわけなのかい」
「ど、どうしてわかるの?!」
わたしは思わず立ち上がって、はっとした。
「……あ、その、えっと」
「年頃の女の子がぼおっとする理由なんて、たったひとつしかないからねえ」
母親は苦笑した。
「でもそれにしたって、またずいぶん急な話だね。
あんたたち二人はさくらんぼみたいに、小さな頃からずっとくっついてたっていうのに。
そうか、恋は突然、か。羨ましいね」
「か、母さんは……わたしのことを笑わないの?」
おずおずと尋ねると、男の子の母親は首を傾げた。
「笑うって、どうしてさ」
「だって……」
わたしはうつむいた。
「わたしのあの子を好きだって気持ちは、変わっちゃったんだよ。
花が好きで、月や星が好きで、それと同じようにあの子のことが大好きだったのに、今は違うの。
好きなのに上手に話せないし、目が合うと逃げ出したくなるし、冷たくされるとすごく腹が立ったりする。
そ、それに……それに」
「なんだい」
「お願い、笑わないで!」
「笑ったりしないよ」
「わ、わたし……わたしね……さわりたいの!」
心にわだかまっていた言葉をついに口にして、わたしは耳まで真っ赤になった。
「あの子を見てると胸がむずむずして……さわりたくて仕方がなくなるの。
手をつなぎたいし、髪を撫でたいし、広くなった胸や背中に触れてみたい。
でも不思議とそう思えば思うほど、どんどんあの子には近付けなくなるのよ」
「わかるよ」
男の子の母親が微笑んで頷いたので、わたしは目を丸くした。
「どうして!?」
「そりゃあたしにだって一応、若い娘だった時があったんだからねえ。
まだその頃はあんたみたいに痩せててさ、信じないかもしれないけど、割ともてたんだよ。
毎日違う男に告白されるあたしに、父さんはうろたえて言ったもんだった。
あんな奴らの言うことになんて、耳を貸しちゃ駄目だ。
お前はずっと俺だけを見てろ。いいな!ってね」
「へえ……」
いつも魚釣りにばかり出掛けてろくに家にいることのない、男の子の父親の飄然とした姿が頭に浮かんだ。
「なんだか想像がつかないよ。あの父さんがそんなことを言ったんだね」
「ああ。まるで今のあの子みたいにぶっきらぼうで、うんと下手くそな言い方だったけどね。
でも嬉しかった。よく覚えてるよ。今でも鮮明に思い出せる」
母さんの日焼けした顔がゆっくりとほころんだ。
いつも力強く輝いている瞳に、いとおしい記憶を反芻する柔らかな光が浮かぶ。
(母さん、まるで甘いものをおいしそうに味わってるみたいな顔をしてるわ)
(たっぷりのはちみつで作った甘い甘い飴を、いつまでも頬の内側で転がしてるみたいな……)
恋って、甘いの?
思い出すと自然と唇はほほえみ、遠い記憶はいつでも真新しく胸を震わせる。
そんな甘くて切ないベールに包まれた、心の宝箱の秘密の砂糖菓子の正体が、恋なの?
(でも、わたしの胸は)
ちっとも甘くない。
あの子を想うと苦しくて、息を吸うのがつらくて、やけどしたみたいに熱くなったり、氷柱を刺したみたいに冷たくなって、
そして時折、ずきんと痛い。
「か、母さんは」
わたしは真っ赤になったまま言った。
「それで……どうしたの?」
「なにがだい」
「と、父さんが好きでさわりたくなって、それから」
「ああ」
男の子の母親は、小さく声をたてて笑った。
「さわったよ」
「ええっ?本当に?!」
「うん、そうだよ。さわった。たくさんね。
好きで好きでたまらなくてさわった時もあったし、不安でしょうがなくてさわった時もあったし、
絡んだ毛糸のようにどうしようもなく気持ちがこじれて、仲直りをするためにさわった時もあった。
ねえシンシア、さわるといろんなことが解るんだ。解りたいからさわりたくなるんだ。
それはちっとも笑ったり、恥ずかしがったりすることなんかじゃないんだよ」
「わ、わたし……」
言葉を失ってうつむいたわたしに、母親は優しく微笑みかけた。
「まだ、よくわからないかい」
「……うん」
「気にすることないさ。頭で考えても解ることじゃないからね」
「そ……それ、あの子も言ってたよ」
「まあ、そうかね」
母親はふいに愉快そうに笑い出した。
「あの子に恋について諭されるほど、滑稽なことはないね!
一丁前に語る暇があったら、せめて愛想笑いのひとつでも出来るようになれってんだよねえ。
さあシンシア、もう悩むのはやめだよ。恋には神様が背中を押してくれる瞬間ってものがある。
その時が来たら、ちゃんと神様はあんたたちふたりを優しく包んでくれるはず。
焦らなくても大丈夫さ。それより今あたしたちは、頭でわかる事を考えてみないかい?」
顔を上げたわたしの前で、男の子の母親の立てた人差し指が小魚のように跳ねた。
「もうすぐ誕生日だよ。
あの子の、17歳のね」