あの日出会ったあの勇者



緑の目の若者はひと息に話し終えると、「さあ、あとはお前自身で考えろ」とでもいうように口をつぐみ、それ以上言葉を続けようとはしなかった。

不安のような焦りのような、訳のわからないちりちりした感覚がにわかにライの背中をつたう。

誰かを、幸せにしてやりたいから働くだって?でも俺、ちっとも幸せなんかじゃない。

毎日ひとりぼっちで迎える朝。ひとりぼっちで食べる朝食。洗濯を忘れられた運動着。

いつもくたくたに疲れきっていて、一緒にいる時間もうとうと舟を漕いでばかりの母親。

子供なりの精一杯のボキャブラリーで、寂しいんだと必死で訴えているのに、家庭教師を雇ってあげるだなんて、返って来るのは見事にピントの外れた答え。

今の俺、幸せなんかじゃない。欲しいのはこんな暮らしじゃない。働いてくれなんて、母さんに一度だって頼んだこともない。

だけど。……だけど。

ライは「なあ」と、今度はカウンター向こうの口髭の男に声をかけた。

「なんだい」

「あんたは、ここでどんなふうに働いてるんだ?」

「わたしかい?どんなふうにって……そうさな」

男は戸惑ったように首を傾げた。

「わたしの仕事は、見ての通りブランカ王立商工業ギルドの職員だ。仕事を求めてこの国のあちこちからここへやって来る皆に、働き口を探して世話する人間だよ」

「ここで働いてて、楽しいか?」

「もうずいぶん長いことこのギルドに勤めてるが、そんなことを聞かれたのは初めてだね」

男は思わず笑いだそうとしたが、ライの真剣なまなざしにゆるみかけた頬を急いで引き締めた。

「そうだねえ。子供の夢を壊したくはないもんだが、楽しいかと聞かれて、ああ、楽しいよと即答は残念ながら出来ないな」

根が生真面目な性分なのか、ちゃかすこともなく丁寧な口調で答える。

背後で書類になにかを書き込んでいた老婆が顔をあげ、聞こえよがしにへっと舌打ちした。

「仕事ってのはほとんどの場合、やりたくもないことで構成されてる。やりたくもないことを頑張らなくちゃならないのは、そりゃ楽しくないもんだよ。

同じ仕事をしていても、歳を取るとそのぶん疲れやすくなるし、体の調子が悪い日だってある。そんな時は目が醒めた瞬間に、ああ、行きたくないなとため息が出る。

でも、なんとかして仕事を見つけたいと必死になってここに来る皆のことを考えると、そうそう気軽に休むわけにはいかないんだ。わたしにも養わなくちゃならない家族がいる。職がなくて不安になる気持ちは痛いほどわかる。

それにここでの勤めが長いもんでね、遠方からわたし個人を頼りにやって来る人々も少なくないんだよ。あんたがいるからここに来たんだ。そう言われた時は、胸がぐっと来るような誇らしい気持ちになるもんさ。

そっちのべっぴんの兄さんの時もそうだったが、いつも相手の要望通りの仕事を見つけてやれるとは限らない。

客の機嫌を損ねて悪態をつかれることもある。わたしが段取りを間違えたせいで、思った仕事に就けなかったと顔を真っ赤にして怒鳴りこまれたこともね。

あんたに聞かれるまで改めて考えたこともなかったが、こうして振り返ってみると、働くってのは嫌なことや面倒なことの方が圧倒的に多いのかもしれないな」

「わかんねえよ。どうしてそれでも働くんだ」

ライは気色ばんで聞きつのった。

「そんな嫌なこと、さっさとやめてしまえばいい。頭を使って考えれば、もっとらくをして暮らす方法があるはずだ」

「らくして、ね」

男は指先で口髭を撫で、ぴんと伸ばした。

「らくはしてるよ。十分なくらいだ。坊や、わかるかい。らくをするのと怠けるのは違う。わたしはここで働いている分、家ではうんとらくをさせてもらっている。

毎晩帰ればあたたかい茶が用意されていて、テーブルに着いたとたん涙が出るほどうまい飯が出て来る。仕事が忙しいと、なかなか家の事には構えなくてね。出来のいい奥さんに甘えっぱなしなのさ。

それでも奥さんは言ってくれるよ。毎日お疲れさま。わたしたち家族は、あなたのおかげでらくをさせてもらっています、ってね。そんな奥さんの手も、冷たい水で家事仕事をして年中あかぎれだらけだ。

わたしたちはお互いにらくをしている。生きていく上のなにもかもを自分ひとりでこなせるわけじゃない。働くだれかのおかげで、自分に出来ない部分のらくをさせてもらっているんだよ。

ここだってそうさ。このギルドはついこないだまで、カウンターの受付職員はわたしひとりだけだったんだ。毎日気が狂いそうなほど忙しかったが、ある時この婆さんが派遣されて来た。

さっきも見ただろ、あの勇ましい仕切りっぷり。婆さんのおかげで仕事が見違えるほどてきぱき進むようになって、わたしはずいぶんらくになった。

だがなんと言っても年寄りだからね。無理をさせないよう大事にしてやらないといけない。だから、わたしはこれからもここで頑張って働くつもりだよ。婆さんがすこしでもらくを出来るようにね」

背後にいた老婆が、書類をばらばらと床に取り落とす。

口髭の男は振り返ると、声をあげて笑った。老婆はあわててしゃがみ込むと赤くなった顔を隠すようにうつむかせ、へっ!と大きく舌打ちした。
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