星の奇跡
そして、それから数日が過ぎた。
空はいつのまにか濃くなり、雲は風を受けてふくらんだ気球のように丸く大きくなった。
もうすぐ夏。
桃色の可憐な花々は、春の間めいっぱいのお洒落を楽しんで土に還り、代わりに現われた赤や黄色の鮮やかで大きな花が、みずみずしい体を伸ばして陽光を誘う。
アネモネの群れにだらしなく寝そべったまま、わたしは空にそっと腕を差しのべた。
掌で琥珀色の人形が黄金の陽射しを受けて、とろりとした光を放っている。
(いつも持ってるから、もう汚れちゃったなぁ)
(何千回だって作れるって言ってた。頼みに行けば、また作ってくれるかな)
頼みに行けば。
緑の目をした男の子と、リンゴの木の下で好きだと確かめあったあの日。
「ここには来ない」と告げたとおり、彼はもう自分から花畑にやって来ることはなくなった。
まるで憑かれたように朝早くから剣と魔法の稽古を繰り返し、夕暮れには独りで村外れの丘に佇み、木彫り細工を彫っている。
なぜだかわからないけれど、そんな彼に以前のように気軽に話しかけることは出来なくなった。
わたしは少し離れた水車小屋のたもとに座り、男の子の視界に入らないよう気をつけながら、黙って稽古のようすを眺めた。
長剣が閃き、大気を裂く。
かかとで土を擦り、腰を落として構える瞬間。
獲物を狙う豹のように瞳が細められ、つま先が地を蹴ると火花が飛んだ刹那、すんなりした体が若竹のようにしなう。
弾き、跳ねあげ、振り下ろす。
彼の剣技はまるで、銀の矢が空気と踊っているみたいだった。
そしてそれを見ると、なぜかわたしは泣き出したいほどの痛切な悲しみにかられた。
いつかきっと、誰も手が届かないほど強くなるんだろう。
そしてそれは誰にも届かない底なしの孤独の泉に、たったひとりで彼を沈めてしまうことになるんだろう。
ふと気づくと激しい稽古を終え、肩で荒い息をしながら、彼がこちらへやって来た。
平たい胸が大きく上下し、瞼に張りついた長い前髪から、ぽたぽたと汗のしずくが落ちている。
わたしはなぜか真っ赤になった。
「よう」
緑の目の男の子はふうっと息をついて、ぶるぶると首を振った。
腕で額の汗を拭い、草むらに鞘ごと剣を放ると、瞳をかすかに和らげる。
「なにやってんだ、お前」
「な、な、なにも」
「こんなところでぼうっとしてたら、羽虫に刺されるぞ」
「だ、大丈夫だよ。少しくらい刺されたってへいき」
わたしはぎこちない笑い声をたてた。
「で……でも、そしたらその羽虫、不老不死になっちゃうね。
なんたってわたしは、人間が喉から手が出るほど欲しがる貴重なエルフだもん。
ねえ、もしいつかあなたにお金が必要な時が来たら、すぐにわたしを呼んだらいいわ。
こんなちっぽけで役立たずな血だって、高く売れる特別な魔法はかかっているんだから!」
男の子は答えなかったが、訝しげに眉をひそめた。
わたしはますます真っ赤になり、慌ててうつむいた。
(な……なに言ってるの、わたし?)
「つまんねえこと言ってないで、早く帰れ。
水場の羽虫は毒気が強い。刺されたらしばらく跡が消えないぞ」
いつものようにそっけない口調で言うと、こちらに背中を向けて、ふいに彼は上衣のすそを掴み、片腕でたくしあげてばっと勢いよく脱いだ。
「きゃあああ!!」
わたしは悲鳴をあげて両手で顔を覆った。
「なんだよ、うるさいな」
「だ、だ、だ……だって!」
「さっきからおかしいぞ、お前。
ここから離れろ。そこにいたら、水が跳ねて濡れるだろ」
あわてて隠した瞼のむこうから、呆れた声が響く。
わたしは恐る恐る目を開け、人差し指と中指のあいだからそうっと彼の姿を覗き見た。
そして思わずぽかんと口を開けた。
目の前に、太陽にさらされた男の子の体がある。
水輪からあふれる豊かな流れに汗で濡れた衣を突っ込み、ばしゃばしゃと乱暴に洗うと頭の上に乗せる。
肩先から腰を無造作になだれ落ちる水。
引き締まった裸の背中にいくすじも描かれる、透明な流線。
(……きれい)
わたしは言葉を失って、男の子の裸の上半身にうっとりと見とれた。
(なんてきれいなんだろう)
(世界でいちばん美しい男の子だわ。天使の翼が生えていないのが、不思議なくらい)
「あー、疲れた」
ぼうっとするわたしに気づかず、男の子は衣を絞って荒っぽく肩にかけると、体を屈めて長剣を拾いあげた。
鞘を掴んで衣の横に乗せると、もうこちらを振り返りもしないまま、さっさと歩いて行ってしまう。
わたしは土の上にぺたんと座り込んで、石になったようにその場を動けなくなってしまった。
耳の内側でどくん、どくんという音。
頬が熱くて、血が全身を逆巻く。
(今、わたし)
(あの子に……あの子の背中に、さわりたいって思っちゃった……!)
緑の目の男の子が落して行った水で、濡れて濃い茶色に変色した土。
まるでそこになにかの答えが書いてあるかのように、長い間ぼんやりと見つめつづけて、
そしてようやく、本当にようやくわたしは気づいた。
お星様。
わたしの気持ち、全然まっさらなんかじゃない。