星の奇跡
それからわたしは男の子の家を出て、まっすぐに村はずれの丘へと向かった。
もちろん、そこにいるって知っていたわけじゃない。
でもわかる。
どこにいても、見えなくても、不思議なほど確信に似た強さで。
香気のような彼の気配が、風に乗ってふうっと睫毛の先をかすめ、ああ、いたと思う瞬間、まるで示し合わせたように同じ速さで彼もこちらを振り返る。
そして笑う。
満開の花みたいな笑顔は、大きくなるにつれて、唇の片側をきゅっと持ち上げるだけになったけれど。
でも知ってるよ。
なにも変わらないよね。
だから、教えて。
わたしたちのあいだに始まった、まだ知らない新しいなにかって、
なあに………?
「いた」
草が続くゆるやかな丘陵のてっぺんの、リンゴの木の根元に彼は座っていた。
声をかける前にこちらに気づくと、手に持っていたなにかを急いで懐に隠す。
わたしはぎこちなく笑いかけた。
「どこにいるのかわからないって、かあさんが心配してるよ。
こんなところで、ひとりでなにやってるの」
いつもなら、こら、なにを隠したの?って、屈託ない調子で聞くところだけれど、さっきの悲しみがまだ尾を引いているから、彼の目を見て上手に話すことが出来ない。
「お前、どうしたんだ」
わたしの問い掛けには答えずに、男の子は眉をひそめた。
「瞼が腫れてるぞ。ハチに刺されたのか」
「そうだよ」
わたしは真剣な顔で頷いてみせた。
「楽しく過ごしてる時にとつぜん刺されたから、ものすごく痛くて悲しかったの。
緑色の目をした、とっても意地悪で憎らしいハチにね」
「……」
男の子の美しい顔に、さっとばつが悪そうな表情が浮かんだ。
顔をしかめて黙りこみ、困ったように視線を四方にさまよわせる。
やがて立ちあがって、枝先になっているリンゴの実を器用にもぎ取ると、こちらにぽんと投げてよこした。
「……さっきは、悪かった」
「うん」
「夕飯までまだ時間があるだろ。食えよ」
「ありがとう」
もぎたての果実を鼻先に近づけると、芳香がふわりと鼻孔にひろがる。
わたしはようやく笑顔になった。
幼い頃から稽古漬けの日々を過ごし、年の近い子供たちとろくに遊んだことがないせいか、緑の目の男の子は人と関わることが苦手で、言葉を選ぶのも決してうまくない。
でも本当はすごく優しくて他人思いの、鏡のように澄み切った心の持ち主なんだってことを、彼の小さな手から甘い薬を飲んで命をもらった、わたしはちゃあんと知っている。
「このリンゴ、青いよ。まだ酸っぱいんじゃないかな」
「こうするといいんだ」
男の子は自分用に取ったもうひとつのリンゴを、木の幹に火打ち石のように、とんとんとぶつけた。
「叩けば中の繊維が割れて、すごく甘くなる」
「こう?」
わたしは真似してみた。
「違う。そんなふうにへなへな叩いたって駄目だ。もっと力を入れろ」
「こ……こう?いっぱい力、入れてるよ」
「お前、弱くなったんじゃないのか」
男の子の瞳がふっと和んだ。
「お前の腕力はそんなもんじゃなかっただろ。昔は片手で俺を、クマみたいに軽々と投げ飛ばしてたくせに」
「も、もうそんなことしないもん!」
わたしは赤くなった。
「そんなの、あなたがまだわたしよりずっと背が小さかった頃の話でしょ。
かあさんが言ってたの。わたしは今、レディになり始めてるんだって。
貞淑なレディは、男の子みたいに相撲なんてしないんだから。
それよりほら、見て!」
わたしは嬉しげに自分の頭の上を指し示した。
「雪みたいに真っ白でふわふわの、素敵な羽根帽子だよ。かあさんからのプレゼントなの!
これが似合うようになれば、もう一人前のレディになった証拠だって。
わたし、帽子なんてもらったの生まれて初めてよ。ねえ、すごく綺麗でしょう!」
「どっちがだ?」
「え?」
「お前と帽子、どっちのことだ」
わたしはきょとんとして緑の目の男の子を見上げた。
「どっちがって、なにが?」
男の子は肩をすくめ、唇だけでかすかに笑った。
「そうだな、悪くない。版画家のフラビアンが描いたパピルスの雪の精に見えなくもない。
どっちもまあまあだな」
「ま、まあまあって?」
「似合ってるってことだ」
なにげなく呟いて後ろに回り込み、リンゴを握ったわたしの手の上に、自分の手を重ねる。
「ほら、このくらい力を入れて叩いてみろ。ただし実は潰さないようにな」
「う、うん」
リンゴがかつんと幹にぶつかるたびに、すぐ後ろにいる彼の胸が背中に触れる。
(似合ってるってことだ)
なぜか急に喉がかあっと熱くなり、息が苦しくなって、わたしは慌てて下を向いた。
(な、なんだろ?これ……)
温かい掌の感触。
子供の頃あんなに冷たかった男の子の手は、今はぬくもりに満たされて指先まで温かい。
(あの子の手がつめたいのは、異種ふたつの血がまだうまく溶け合っていないからさ)
(大人になれば、治るはずだよ)
じゃあ成長した体の中で、ふたつの血はもう綺麗に混じり合い、ずっと不完全だった男の子のなにかは、積み木を積み上げるように完成を迎えようとしているんだろうか?
「ねえ」
ふいに説明のつかない不安にかられて、わたしは言った。
「わたしたち、ずっと……ずっと、このままでいられたらいいね」
「またそれかよ」
男の子は呆れたように手を止めた。
「お前のその台詞、今日までで何百回目なんだ?
このままでいる以外に一体、なにがあるって言うんだよ」
「そ、そんなのわからないわ。
だけどわたしはこれからもずうっと、あなたとこうして一緒にいたいの。
夜はあなたと同じ夢を見て眠りたいし、朝の太陽はいつもあなたと迎えたい。
ずっとずっと、いつかこの体が朽ちて星の海に還る時が来るまで。
……あなたはどうなの?」
「俺?」
男の子は面食らった顔をした。
「そうだよ。あなたはわたしとずっと一緒にいたいって思わないの?
もうふたりで寝たくないなんて、急に言いだして。わたしといるのは楽しくないってことなの?」
「おい、シンシア」
止まらなかった。
さっき感じた息苦しさが、今度は頭の奥を駆け抜ける熱になって、気づくと自分でも驚くほど激しい剣幕で、わたしは彼を必死で問い詰めていた。
「わたしはあなたのものだって、あんなに言ってくれたじゃない。それなのにどうして、突然離れて行こうとするの?
大人になって体が大きくなったら、もう心はいっしょにいられないの?
わ、わたしのことが……嫌いになっちゃったの?」
むせかえるようにただようリンゴの香りの中、掌を重ねたまま、男の子は困惑した顔でわたしを見つめていた。