星の奇跡



その日のわたしがもしナメクジだったら、涙の塩で体じゅう無残に溶けてしまっていたに違いない。


「おやまあ、シンシア」

扉を開けたわたしを見て、体を丸めて熱心に縫いものをしていた男の子の母親は、驚いた声をあげた。

「一体どうしたんだい?まるでミツバチにでも刺されちゃったような瞼をしてるよ!

転んで怪我したかい?それとも、誰かになにかされたのかい?」

「怪我してないし、なんにもされてない」

わたしは泣きすぎてすっかり腫れた目を伏せた。

そう、なんにもされてない。

ただ当然のようにもらえると信じていた言葉が手に入らなかったのが、悲しいだけ。

それだけ。

「とにかくお座り。あったかいお茶を入れるからね。かわいい顔がひどい有り様だよ」

幼い頃わたしをこの村に迎え入れた時と同じように、男の子の母親は温かく笑った。

わたしはしゅんとしてテーブルにつくと、出された木のカップに鼻を突っ込んだ。

林檎を浮かべた熱い紅茶。

台所のかまどからはパンが焼ける匂いがゆっくりと立ち昇り、窓から時折吹き込む風が、煉瓦造りの壁に吊るしたタマネギやニンニクをさやさやと揺らす。

積み上げた薪もヒースの酒樽も、使い込まれてすすけた暖炉も、見慣れた光景はなにひとつ変わっていないのに。

(お前とはもう、寝たくない)

つめたく言い捨てて小さくなっていった背中。

どんなに時がながれても、ふたりの間にあるものは決して変わらないと信じていたのは、わがままでひとりよがりなわたしの、馬鹿な勘違いにすぎなかったのだろうか。

母親は黙ってわたしを見てから言った。

「もしかして、あの子と喧嘩でもしたかい」

わたしは驚いて顔を上げた。

「どうして?!なにか言ってたの?わたしのことが嫌いだって?!

勝手にモシャスを覚えていたずらなんかしたから、それですごく怒っちゃったの?」

「怒ってないよ」

男の子の母親は笑った。

「知ってるだろ?あの子はああして無愛想だけど、めったなことで怒ったりしないよ。

あんたがそんなに泣くなんて、あの子のことしかないだろうからそう言っただけさ。

どうしたんだい?なにがあったのか、言ってごらん」

「う……ん」

わたしは鼻を啜って、ちらちらと辺りを見回した。

「……今、いないの?」

「ああ、いないよ。一度帰って来たけどすぐに出て行っちまった。

最近ずっとそうなんだよ。暗くなったら戻って来るけど、一体どこでなにをやってるんだか。

あのくらいの年の男の子の考えることは、わたしにゃさっぱりわからないね」

「新しい魔法の稽古かな」

わたしは言った。

「だからここのところ……あんまりわたしとも遊んでくれなくなったのかな」

「魔法は習得するのに、ずいぶん時間がかかるものもあるからねえ。きっと、そうかもしれないね」

母親はなぐさめるように言った。

「ひょっとしてシンシア、あんたあの子に遊んでもらえないのが悲しかったのかい?」

「そうじゃないの」

わたしは首を振った。

「ううん、そうなのかな。よくわからないよ。

たいせつな剣や魔法の稽古の邪魔をしちゃいけないってことは、ちゃんとわかってるの。

だからわがままは言わないようにしてる。

毎日遊べなくたってがまんするし、ごはんの時間もべつべつだって構わないわ。

でも……でも」


(おやすみ、シンシア)

(おやすみ)


星空の下。

眠るだけだというのに、まるでどこかに出かけるみたいにいつもぎゅっと手をつないだ。

並んで目を閉じ、花の匂いを吸い込みながら、うねるように濃密な夢の世界にふたり運ばれて行くあの瞬間。

どこからか眠りの精が降りて来て、わたしたちの頭をこんこんとノックする。


(さあ、からっぽになりましょう)


(今日の憂鬱も悲しみも全部脱ぎ捨てて、真新しい朝を迎える準備を始めましょう)


(夢の中で、からっぽのただのあなたになって)


やがて朝が来て、意識の深層を泳いできれいに洗われた体に戻り、瞼を開ける。

心地よくて、でも少しあやふやな目覚めを見守ってくれるのは、明けの星のようなふたつの緑の目。


そう、男の子は不思議と必ずわたしより先に起きていた。


(おはよ、シンシア)


(おはよう)


それが幸せな幸せな、わたしのいとおしい一日の始まりだったのに。


「もう一緒に寝られないなんて、いやだよ」

わたしはぽろぽろと涙をこぼした。

赤い結晶が粒になって頬を転がり、かつんとテーブルにあたって床に落ちる。

「どうして急に、ふたりで眠るのがいやになっちゃったのかな。

もしかしてわたし、風邪引きのロバみたいにひどいイビキをかくようになったのかもしれない。

だからうるさくてうるさくて、嫌われちゃったのかもしれないわ」

「うーん……」

男の子の母親は、むずかしい顔をして頭をかいた。

「そういうわけじゃ……ないと思うけどね」

「じゃあどうして?」

わたしは声を荒げた。

「急にいやだって言われても、わかんないよ!

どうして嫌なのか言ってくれなきゃ、わたしわかんないもの!

どうしてそんな意地悪……、どうして………」

わっと泣きだそうとしたが、母親の視線に気づき唇を噛んでこらえる。

「ごめんなさい、かあさん。

おかしいよね。わたしったらまるで、言うことを聞かない小さな子供みたい」

「いつもにこにこしてるあんたが、そんなに取り乱すのを初めて見たよ」

母親の瞳には困るというより、むしろ面白そうな光が浮かんでいた。

「そうだよね。いつのまにかあんたたちも、もうそんな年頃になったんだねえ。

役に立つ助言をしてあげたいけど、なにせあたしもずいぶんと昔の経験だから、すっかり忘れちゃってね」

「なにが?イビキのこと?」

「そうじゃなくてさ」

母親は手にしていた縫いさしの白いものを口にやり、歯でぷつんと糸を噛み切った。

「ほら、出来たよ」

わたしの頭にぽんと乗せると、温かい笑みを含んだ声が耳を撫でる。

「ねえシンシア。ひょっとしたらあの子の心の中で、今までとは違うなにかが始まってるのかもしれないよ。

そしてそれは、あんたにも。

わからないことがあるなら、本人に聞いてみるのがいちばんさ。

なんたってあんたは、あの子のものなんだからね。そのくらいの権利はあるはずだよ!」

言葉の意味がつかめずあいまいに頷くと、ふと頭の上のものが滑り落ちた。

わたしは思わず息を詰めて、手に取ったそれに見とれた。

「わあ……すごくきれい。雪の花束みたいだわ!」

母親は微笑んだ。

「レディになり始めたあんたに、プレゼントだよ」


それは柔らかい楕円形で、ふちに銀色の花もようの刺繍がほどこされている。

渡り鳥の翼を織り込んでていねいに縫い上げた、純白の羽根帽子だった。
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