星の奇跡



そしていつしか月日は、枝から離れた木の葉が風に舞うようにするすると流れていった。

わたしは山奥の村の住人になった。

そこは外の世界とのつながりを断ち、誰ひとり村を出ることなく日々の営みを繰り返している不思議な場所で、

それでも鮮やかな色彩が踊る万華鏡のように、同じ毎日はいつだってちがう色に輝いた。

緑の目の男の子とわたしは、なにをするのもいっしょに過ごした。

ごはんを食べるのも眠るのも、花をつむのも、村じゅうを走り回って遊ぶのも。


そして、風と鳥の歌をうたうのも。


わたしの歌を聞きながら、男の子の目が夢みるようにきらめくのが、言葉にできないほどうれしかった。

緑の瞳が鳥とともに駆け、はるかな空へ風に乗って飛んで行くのを見るのが、うれしかった。

でもどうしてだろう。

咲き誇る花が必ず散るみたいに、青く豊かな若葉が必ず枯れるみたいに、

いつかきっとこの日々は、美しい物語の最後に「おわり」と告げるような結末が来るのだと、心のどこかでわかっていた。


だからわたしはいつも言った。


男の子に向けて。


お星さまに向けて。


そしていつしかそれは、男の子をあきれさせるほどの口癖になった。



「ねえ、わたしたちずうっと、このままでいられたらいいね………」







「キクリ」


足音が近づいて来る。


花の群れに顔を埋め、うとうととまどろんでいたわたしは目を開けた。

「キクリ、どこに行った」

さくさくと、真新しい春の土を踏みしめる音。

一見無造作なその足が、実はていねいに花をよけて歩いてるのを、ちゃんと知ってる。

わたしはそのまま花のじゅうたんにうつぶせて、降りて来る言葉にじっと耳を澄ませた。

「キクリ、めしだぞ。出て来い。かあさんがイワナを焼いた」

(……声、ずいぶん変わったなぁ)

ツバメのさえずりのようだった声は、いつしかゆるやかに変化を迎え、今では窓から流れこむ風鳴りのように低く涼やかになった。

(でも、どっちも好き)

このまま寝たふりをしていたら、しゃがみ込んで名前を呼んでくれるかな。

あの日みたいに、初めて出会ったあの時みたいに、翡翠の瞳を輝かせて天使のようなささやきで、

「ねえ、起きたの」って。

でもまもなく17才を向かえようとする彼は、もうそんな子供じみた振る舞いはしない。

わたしはこっそり花の中に手を伸ばして、あるものをつかむと小声でこそこそと呟いた。

(…………よし、行けぇ!)

咲き乱れる花の渦の中から、ぴんと耳の尖った虎縞もようのネコが飛び出す。

「キクリ、いたのか」

安堵の声に、次の瞬間あわてたような響きが混じった。

「いてっ、お前なにす……やめろ、うわっ!」

どすんという音で、叫びが途切れる。

彼が後ろによろめいて転んだのだ。

「ひっかかった」

わたしはぱっと顔を上げた。

「もういいよ、解けろ!」

指を鳴らして合図すると、彼の腕にいた太ったヤマネコが、みるみる砂のように溶けていく。

粒子がなだれ落ちて消え、中から灰色のヤモリが枯れ葉のようにひらっと落ちると、すばやく姿を消した。

「やったわ、だまされた!」

わたしは声をあげて笑った。

「キクリなら魚の匂いに気づいて、とっくにおうちに帰ったよ。

ねえ、すごいでしょ。モシャスの呪文だよ。やっと覚えたの!

まだ小さなものを変化させることしかできないけど、もう少し練習すれば、わたし自身も変身できるようになるわ!」

「……そんなもの覚えて、どうするんだよ」

男の子はため息をついて起き上がろうとした。

だが花に埋もれるわたしを見つめ、しばらく迷ってから隣にごろりと横たわった。

わたしは嬉しくてたまらなくなり、花びらをかきわけてぴたりと彼によりそった。

頬にあたる肩先が堅い。

男の子なんて呼ぶには、きっともう大人に近づきすぎているのかもしれない。

絹糸のような髪と緑色の瞳。

綺麗に伸びた鼻筋と、石膏のような肌。

小さかった背は10才を過ぎたころからみるみる伸びて、今ではわたしより頭ひとつ以上も大きくなった。

成長するってことは、変わること。

だけど大切なものはなんにも変わらない。

宝石がみがかれてどんどん光を増すように、年を取るにつれ、子供の殻を脱いだ男の子の美貌は輝くばかりに増していく。

でも身体という入れ物に隠れた彼の魂の色も、まっすぐな心のきらめきも、幼かったあの頃となにひとつ変わっていないってことを、わたしはちゃんと知っている。

「あなたも覚えたらいいよ。わたしだって唱えられるんだから、きっとすぐだよ。

そしたらいろんなことをして、たくさん遊べるわ。ほんとうにたくさん。

鳥に変身して自由に空を飛んだり、魚になって川をすいすい泳いだり」

「俺は、自分の体を使って出来ることしかしたくない」

そっけなく言って、男の子は自分の腕を枕にするとわたしに背を向けた。

わたしは眉をくもらせた。

「怒ったの?」

「怒ってない」

「ねえ、いたずらがしたいから、この呪文を覚えようと思ったんじゃないんだよ。

モシャスが使えたら、わたしはあなたになることが出来る。

そしたらもし離れ離れになった時も、鏡を見てにっこり笑って、ああ、わたしはあなたといっしょにいるんだ。

隣にいなくてもあなたはちゃんといるんだって、いつでも確かめることが出来るからなの」

「なら、なおさら必要ないだろ」

男の子はむこうを向いたまま言った。

「そんな時、絶対来ないから」

わたしは目を見ひらいた。

ふいに世界が初めて見る色にいろづき、空が音をたてて揺れる。

熱いかたまりが込み上げて、鼻の奥がつうんと熱くなったから、ごまかすようにわたしは男の子に飛びついた。

「こら、人と話すときは、ちゃんと相手の目を見て話せ!」

背中を両手で引っぱり寄せて、からだごと地面に押しつける。

驚いた彼の手と自分の手をきつく繋ぎあわせると、わたしは子供の頃よくしていたように彼の上に馬乗りになった。

「ねえ、聞いてるの?ちゃんとわたしの目を見なさい」

おじぎするように前かがみになり、あおむけになった男の子の顔に顔を近づける。

「かあさんが言ってたでしょ?目と目の光の取りかえっこをするから、心も仲良しになることが出来るのよ。

それともあなた、まさかいたずらにひっかかったくらいで、もうわたしと仲良くしたくないって言うつもりじゃないわよね?」

瞳と瞳がからまり、鼻と鼻がこつんとこすれ合う。

いつかのように白い歯を見せて、ごめん、ごめんと無邪気に笑うかと思ったら、そうじゃなかった。

緑の目の男の子は、眉を歪めて顔をそむけ、次の瞬間、なめらかな頬に飛沫のようにばっと朱い色が散った。

わたしはあっけに取られた。

「ど、どうしたの。具合でも悪いの?」

ひたいをくっつけようとすると、男の子はさっと手でわたしを押しのけた。

「やめろよ」

「だ……だってあなた、熱があるんじゃないの?顔がまっかだよ」

「熱なんてない。……帰る」

荒っぽくわたしをどけると男の子はすばやく立ち上がり、身をひるがえして歩き始めた。

「待ってよ!」

わたしは叫んだ。

「ねえ、今日の稽古はもう終わったんでしょ?だったら今夜、久し振りにここでいっしょに眠ろうよ。

星空を見ながら風と鳥の歌をうたって、朝まで手をつないで寝ようよ」

「寝ない」

振り向きもせずに男の子は言った。

「どうして?!このところ全然、前みたいにいっしょに寝てくれないじゃない。

わたし、あなたと朝までいっしょにいたい。虫の歌を聞きながらふたりで眠りたいのよ」

「俺は」

そのとき男の子がわずかにためらいながら、背中ごしに口にした言葉は、彼から初めて受けた鋭い刃となって、わたしをひどく打ちのめした。


「おまえといっしょには寝たくない。


だからここには、もう来ない」
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