星の奇跡
そこから先のことは、まるで夢のようにぼうっと霧に包まれていて、あんまりよく覚えていない。
緑色の目をした男の子の母親は、息子に「裏の井戸で水をくんで来ておくれ」と頼むと、わたしの手を引いて奥の部屋へ連れて行った。
破れた服を脱がせて、濡れた布で体をきれいに拭いてくれる。
まだ痩せていた娘時代のだから大丈夫だよと言って、箪笥から出した服をわたしに着せると、椅子に座らせ、足や腕を手に取って傷のぐあいを子細に調べた。
「よかった。思ったよりひどくないね。このくらいの怪我なら、きっと跡も残らないよ」
「あの子が」
わたしはおずおずと言った。
「あの子が治してくれたの」
「坊やがかい。ああ、今ちょうどホイミの勉強中だったものね。
でもこんなにすり傷が残ってちゃ、治したうちには入らないよ。
ヨモギの軟膏を塗るからね。少ししみるけど、頑張るんだよ」
木箱から薬を出すと、ひとつひとつの傷にていねいに薬を塗り込んでくれる。
手も足もずきんと痛かったけど、薬草をすりつぶした軟膏はとてもいい匂いがした。
わたしは豊かに広い女性の肩を見下ろしながら、ふと首をかしげた。
(人間の親子って……、あんまり似ないのかな。
わたしとおかあさんは、鏡を見てるみたいにそっくりだったけど)
目の前の女性とあの男の子は親子であるはずなのに、髪や瞳の色も違う。
がっちりと体格がよく、小麦色の肌をしている女性と、色白でほっそりと華奢な男の子は輪郭も顔立ちもなにひとつ、親子らしく似通ったところが見当たらない。
それは「似ていない」のではなくて、「全く違う」といったほうが正しいくらいだった。
視線に気づいた女性は薬の蓋を閉じて立ち上がり、困ったように微笑んだ。
「どう、もう痛いところはない?」
「は、はい」
「そりゃよかった。じゃあひとつだけ聞かせておくれ。
シンシアって言ったね。あんた、ここに来るまでに誰かに後をつけられたり、追って来た人間に居場所を知られたりしたかい」
「それは……ないと思うわ」
わたしは首を振った。
「わたし、丘の上から落っこちちゃったし。
それに人間たちのほとんどは、捕まえたおかあさんとおとうさんを奪い合うのに夢中だったから」
「……そうかい。いやなことを聞いちゃって、すまないね」
言葉とはうらはらに、男の子の母親の瞳が張り詰めた光を帯びた。
「シンシア。これからあたしがする話は、とっても大切な話だよ。普通の人間には絶対に話さない。
でもあんたは、水晶みたいに綺麗な目をした子供のエルフだ。あたしはあんたを助けたいと思う。
あの坊やが珍しく、ずいぶんとあんたを気に入ってるみたいだしね。
ねえシンシア。あんただって、坊やのことが好きになったろう?
びっくりするくらいきれいな、天使みたいな子だって思っただろう?」
「うん、好き!」
わたしは思わず叫んだ。
「すごく好きよ!あの子はわたしを助けてくれた。
まだ会ったばかりなのに、どうしてかな?
すごく好きで好きで、一緒にいたくてたまらないの」
「わかるさ」
母親は笑った。
「あの子は、この世のさだめを導く者。魔法みたいに人を惹きつけるんだよ。
ひとめあの子に出会ったら、まるで蝶が花に引き寄せられるように、誰もが惹かれずにはいられない。そんな子なんだ」
「魔法がかかってるの?」
わたしはびっくりして言った。
「だからあんなに、雪みたいにつめたい手をしているのね」
「ああ、あれは気にしなくっていいよ。たぶんまだ異種のふたつの血が、体の中でうまく溶け合ってないからなんだ。
大人になるにつれて、だんだんと治って行くはずさ」
「ふたつの血?」
わたしは目を丸くした。
母親は目を細めて、わたしの頭を優しく撫でた。
「シンシア。あの子はね、特別な子なんだよ。
そう言われるのをあの子がどれほど嫌がっているか、あたしは知ってる。
街に住むごく普通の子供たちのように、剣や魔法の稽古なんてせず、狭い村に閉じ込めることもなく自由に遊ばせてやることが出来たら、どんなに幸せか。
でもね、それは許されないことなんだ。
たとえばパンがなくたって、あたしたちは生きて行ける。
読みかけの本をなくしても、お気に入りのカップが割れちゃっても、それでも生きていける。
でももし、空から太陽がなくなったら?
世界じゅうの海が干上がって、一滴の水もなくなったら?
あたしたちは生きていけない。この世界は続いていけない。
あの子はね、そういう存在なんだよ。
輝く太陽や海のように、この世界にとってかけがえのない特別な子。
だからあの子のそばにいたいと思うなら、シンシア……あんたにも守ってもらわなくちゃならない、たくさんの掟がある」
「わかったわ」
わたしは頷いた。
「お星さまから授かった役目だもんね。ちゃんとできるよ」
「この村の存在を、外界の者に知られるわけにはいかない。
あんたももう、ここから出ることは出来なくなるよ」
「平気だよ。あの子と一緒にいられるなら」
「もしかしたら、いつか」
男の子の母親の言葉が、一瞬途切れた。
「あの子のために、あんたの命を犠牲にしなきゃいけないことだって……あるかもしれない」
「だいじょうぶ」
わたしは心から言った。
「わたし、あの子にぜんぶあげるってもう決めたから」
「そうかい」
母親は声を詰まらせて微笑んだ。
「じゃあ今日からあんたもあたしたちの家族だ、シンシア。
どうかあたしの坊やと、思うぞんぶん仲良くしてやっておくれ。
あの子がまだ知らない陽気な笑顔と、誰かを愛するあったかい心の温もりと、風や鳥がさえずる、たくさんの歌を教えてやっておくれ。
時が許してくれるまで。
いつか……、その日が来るまでね」