あの日出会ったあの勇者
(運は神様のお目こぼし。この兄さんが積み重ねて来た努力が引き寄せた、神の立派なご褒美さ)
(……努力)
ライは傍らに佇む緑の目の若者の、しなやかそうな手をちらりと見た。
風呂屋で見た彼の身体に刻まれていた、外見の美しさからは想像もつかないような無数の傷跡。この手で剣を握り、あまたの敵と戦って来たのだ。
そして今度は同じ手で、生きていくために必要な美しい技を使っている。木彫りという、幼いころからの彼の努力が磨きあげた技を。
(俺は努力なんかしていない。生きていくために働かなくちゃいけないなんて、今まで思ったこともなかった。
豪華なご馳走なんかじゃないけど、家にいれば当たり前のようにおいしいごはんがあって、毎日あたたかいベッドで朝までぐっすり眠れたから)
そこに母さんはいなかったけれど、ライというひとりの子供の暮らしはいつも、羽根布団でくるみ込んだようなぬくもりで守られていた。
そして、それを守ってくれていたのは。
「なあ、質問していいか」
ライが尋ねると、緑の目の若者はなんだというふうに黙って眉を上げた。
「あんたが金を貰ってる木彫りの仕事って、毎日どんなふうに働いて、作ってるんだ?詳しく教えてくれないか」
「そんなこと、聞いてどうする」
「いいから!」
若者は肩をすくめると、自らが過ごす一日を思い出すようにしばらく間を置き、やがて話し始めた。
「朝起きて、顔を洗って飯を食って、それからすぐに木彫り小屋で製品を作り始める。
大体は、日が落ちて手元が見えなくなるまで作る。集中しないと刃先が狂うから、昼飯以外は一切休憩しない。
作ったものをまとめてブランカのディートの店に売りに行くのは、月に一度だ。それまで出来るだけ多くの品物を作っておく。最近はディートを通して、家具や楽器の個別の注文を受ける場合もある。
雨の日は彫り仕事は休みだ。湿気で木が柔らかくなりすぎるから作るのを止めて、あらかじめ作っておいた茶碗や酒杯に釉薬を塗る。出来上がった笛やオカリナの音試しをするのも雨の日だ。湿気があるほうが音色がよく響くからな。
晴れの日が三日以上続いたら森に入って、原料にする木材を集めに行く。テーブルや机は一枚板で作ったものを好む客が多いから、山の奥まで昇って樹齢の長いナラやオークの木を切る。
台車に積んで持って帰ったら、乾燥小屋でよく乾かしてやすりで磨く。虫食いがあればその部分は切り落としておく。香りが移ってしまわないように、それぞれ木の種類ごとに保管場所もちゃんと分けておかないと駄目だ。
品物を作るペースはまちまちだが、よほど大きな家具でない限り、ひとつの製品を彫るのに十日以上はかけない。
おおまかな形が彫り上がったらもう一度乾かして、今度は細部にレリーフを入れる。こっちの作業のほうが時間がかかるんだ。
毎回同じ模様ばかり彫るわけにもいかないし、作業に取りかかったからって、上手い具合に図柄が思い浮かぶわけじゃない。台帳を常に持ち歩いて、ふとした時に思いついた模様を忘れないうちに書きだしておくようにしている。
どうしてだかわかんねえけど、考えよう考えようとする時ほどなにも浮かばなくて、まったく別のことをしている時に限っていい図案が浮かんできたりするからな」
寡黙な緑の目の若者が、何かの台詞を読みあげるようにこれほど長く喋ることにも驚いたが、若い彼がいっぱしの木工職人として、朝から晩までたったひとりでじつに様々な作業をこなしていることにライはひどく驚いた。
「木工製品を作るのって、そんなに手間がかかるのか。そのへんに落ちてる木切れを適当に彫って、店に売りつけてるってわけじゃないんだな」
「当たり前だろ」
適当にと言われ、緑の目の若者は不本意そうな顔をした。
「単に自分の持ち物として作るならそれでもいいが、金を貰ってるんだぞ。いくら俺だって、真面目にやる」
「毎日そんなにたくさん働いて、嫌にならないのか?」
「なる」
若者は仏頂面で即答した。それについては彼にも彼なりの言い分があるようだった。
「嫌になるのなんてしょっちゅうだ。自分の好きなものを好きなように彫るのは楽しい。そんな時は熱中しすぎて、気がついたらいつのまにか日が暮れてる。
でも、仕事になるとそうはいかない。彫っても彫っても終わらなくて、一日がすごく長く感じる。大体、俺は大きな家具を作るのは本当はあまり好きじゃない。一枚板を切り出すために大木を倒すのだって、罪悪感が湧く。長生きして幹を太らせた樹木たちに、俺の都合で悪いことしてるなと思う。
俺の作ったものを買い取ってくれるディートには、感謝している。でも評判が広がり過ぎて、最近は前よりずっと多く注文が入るようになった。時には、たった一日で机と椅子を何組も作らなきゃいけない。
好きじゃないものばかり作らないといけない時は、面倒で頭が痛くなる。上手く作れなくてイライラすることも多い。俺は煙草を吸わないけど、もしも吸えてたら足元じゅう吸殻だらけになってるだろうな」
「……どうして、そんな思いまでして毎日作り続けるんだ?」
「それが俺の仕事だからだ」
若者はライを見つめた。淡々とした口調とは違い、愁いを帯びた瞳の奥には何かを訴えようとする光があった。
「俺には守らなければならないものがある。だから仕事をする。
この世は物で成り立ってるから、綺麗事だけじゃ生きていけない。食べ物や衣服を手に入れる金が必要だ。
決まりきった作業を繰り返すのは、楽しいことじゃない。でも、働くからには手を抜きたくない。俺が作った品物をわざわざ金を出して買ってくれる人には、出来るだけいい物を使ってもらいたい。
時々、もうこんなことはやめちまおうかな、と思う時もある。働かなくても狩りをしたり川で魚を獲ったりすれば、ある程度は食っていけるだろうし、シンシアもきっとそれでいいと言うだろう。
でも、俺はあいつに不自由な暮らしをさせたくない。あいつが寒いと思えばあたたかい上着を買ってやりたいし、時々は街の珍しい食べ物を食わせてやりたい。綺麗な絵や本だって手に入れてやりたい。
あいつを幸せにしてやりたい。そう思うから、俺は働かなくちゃいけないんだ」