星の奇跡
「ねえ、教えて。エルフはどんなうたをうたうんだ?」
わたしが答えないでいると、緑の目をした男の子は不満げに唇を尖らせて立ち上がった。
口に掌を押しあて、残った樹液をぺろりと舐める。
「んん、おいしい」
舌に広がる甘みにうっとりと目を閉じて、小さなため息をつく。
「でもこんなに減っちゃったから、のみすぎると母さんに叱られる。あと三回眠るまで、がまんしなきゃ」
「三回眠るまでって?」
「ぜんぶで七回眠って、同じだけ太陽がのぼったら、かあさんがまた新しい薬をくれるんだ」
「これ、お薬じゃないよ。砂糖カエデ。大昔の言葉でメイプルシロップ、って言うの」
わたしは首を振った。
「とっても甘くておいしいけど、ただの樹液だわ。飲んだってどこも治ったりしない」
「違う。これはおれの「耐えるこころ」を強くする薬なんだ」
緑色の目をした子供の鼻先に、一瞬反抗的な皺が寄った。
「おれの耐えるこころが足りなくて、どうしてもがまん出来なくなったときは、母さんの許しをもらってこれを飲む。
それから三回大きく息を吸って吐いて、わきあがって来る気持ちを一生けんめいしずめろって、かあさんが」
「気持ち?どんな?」
「この村を抜け出して、まだ知らない草原や森や湖へ、たくさん遊びに行きたい気持ち。
……それから、帰りたい気持ち」
「帰りたい?」
「うん」
男の子は頷いた。
「あそこに」
葉の落ちた木々の枝のすきまから覗く青く広い天空に、小さな両手をいっぱいに差しのべる。
「ときどきおなかの奥がぎゅうっと縮んで、帰りたくてしかたなくなるんだ。
白い雲のむこうの綺麗なお城から、誰かがいつも泣きながらおれのことを呼んでる。
かあさん……?
ううん、かあさんはここにいる。
……よく、わからない」
白く無垢な手が決して届かないなにかを掴もうとするように、虚空へと伸びていく。
それはまるで生まれたばかりの雛が、見果てぬ大空へ飛び立とうとする姿。
まっすぐに伸びた背中から、虹色に光る視えないふたつの翼がばさりと広がり、その瞬間、世界のすべては彼のかたわらに寄り添った。
(この子は天使なのかしら?)
わたしは空を見上げた。
(ねえ、おかあさん。
もしかしてこの子が、お星様がめぐり逢わせてくれた、わたしが守らなくちゃならないたったひとつの奇跡?)
だが返事はない。
紅い涙のかけらが流れ込んだ耳が痛くてまばたきすると、虹色の翼はふっと消えた。
緑の目をした男の子は憮然として手を降ろした。
「でもどうせ、空の上なんかに行ったり出来ないけどな。
おれは村のかきねを超えることだって、絶対に駄目なんだって許してもらえない」
拗ねたように爪先で土を蹴って、じろりとわたしを見据える。
「いいか。今の話、誰にもないしょだぞ」
「うん」
「たいせつな耐えるこころの薬を、おまえにだけトクベツに二回もわけてやったことも」
「うん」
「やくそく、まもれるか」
「うん」
「なら、連れてってやる」
「どこに?」
「おれの家。本当は村によそのにんげんは、絶対に入れちゃいけない掟だけど、おまえはたくさんけがをしてる」
男の子は膝をついてかがみ込み、わたしの額にそっと手を重ねた。
「それに、エルフも駄目だとはだれも言ってなかった」
小さな唇がかすかに動き、力を込めるように手の甲に瞳を注ぐ。
そのとたん視界が淡く輝き、みるみる身体が軽くなった。
痛みが潮が引くように遠のいて、全身を包んでいた痺れが消えて行く。
「今、なにをしたの?」
わたしは怯えて叫んだ。
「あなた、だれ?魔法使いなの?どうして怪我を治せるの?
どうして……わたしを治すの?人間なのに」
「ホイミの呪文のかけらだ。
まだ覚えていないから、ちゃんと使えない。だから、おれだけじゃぜんぶは治せない」
男の子はそれが恥ずかしいことだというように悔しそうに頬をふくらませると、するりと手を滑らせて、今度はそっとわたしの頬に触れた。
「……お前、すごく、きれいだ」
囁きが落ちる。
氷のようにひんやりした感触が、頬に染み込んでいく。
この子の手はどうしてずっと、こんなにも冷えきっているんだろう?
「あなたの手、つめたいね」
わたしは男の子の手の上に自分の手を重ねた。
「でも大丈夫。歌をたくさんうたえば、すぐにからだじゅうがぽかぽかに温かくなるよ。
あなたはわたしを助けてくれた。だからお礼に、わたしの知っている歌をぜんぶ教えてあげる。
わたしの持っているぜんぶを、あなたに」
「お前の名前は」
「シンシア」
「行こう、シンシア」
緑色の目をした男の子はそこで初めて、木洩れ日が広がるようににっこりと笑った。
「おまえはおれが見つけた。
今日からおまえは、おれのものだ」