下弦の月の夜
眠るクリフトの足元で、月の光を受けて宝石のように何かがきらめいた。
それはかつて世界が救われた後、勇者と呼ばれた少年から彼が授かった、天翔けるドラゴンの翼を左右に配し、中央に宝珠を埋め込んだ、輝くように美しい白金色のサークレットだった。
(天空の兜なんて、持って行ってどうするのよ。
サントハイムの宝として遺した方が、よほど役に立つことがあるかもしれないのに)
出立の際、大事そうに革袋に兜をしまうと、訝しげなわたしにクリフトは笑顔で首を振った。
(遥か永い時を越え、いつか我らの志を継ぐ者が再び、これを必要とする時がやって来る。そんな気がするのです)
(それは遠い未来に、世界がまた魔の脅威に襲われるということなの)
その時ふと、予知能力者である父が残した言葉が脳裏を掠めた。
(わたしとクリフトの子孫に、砂の嵐の災い)
それがもし同じ時の流れの出来事であるのならば、私達二人の子孫は再び魔の跋扈する荒廃した時代を、樹々や水の枯れ果てた、砂の舞う世界で生きているということになるのだろうか。
「……アリーナ様?」
草擦れの音と共に、クリフトが身じろぎして、こちらを向き直った。
「もう、お目覚めですか」
「野宿なんて久しぶりだから、なんだかうまく寝付けなくて。
クリフト、まだ眠ってていいのよ」
「アリーナ様は」
「わたしは考え事でもしてるわ」
「姫様がお考え事」
クリフトは瞼をこすりながら、小さく笑い声を立てた。
「この月夜に、雨が降るかもしれません」
「失礼ね。カーラに続いてお前まで」
わたしはむっとして言った。
「わたしだってこの世の諸行無常を憂え、思い悩むことくらいあるわ」
「それは勿論そうですが」
クリフトは微笑んで、わたしを引き寄せた。
「では只今、貴方様の心を悩ませているお悩みとは、一体どのようなものなのでしょう」
「それは……実は、私達の子孫が」
言いかけて、わたしは言葉を飲み込んだ。
敬愛するサントハイム王の言葉を、単なる戯れ言として片付けられる性格のクリフトではない。
「昔……。昔ね、ミネアに診てもらったことがあるの。恋占い」
「占いですか」
クリフトは虚を突かれたような顔をした。
「そうよ。あなたとわたし二人の」
わたしはクリフトの胸に頬を寄せた。
鼻孔をくすぐる、芳しい白檀の香油のかおり。
教会を去ったクリフトからは、いつかこの香りも消え失せてしまうのだろう。
「今でもはっきりと覚えてる。最後の戦いの前夜、ミネアは長いこと水晶を見つめてから、こう言ったわ。
王女アリーナは火、神官クリフトは水。
互いに惹かれ合うほど、火は水を焦がし、水は火を解かし、後に残されるのは」
わたしははっとした。
「アリーナ様?」
「そうだわ。確かにそう言った。
二人の後に残されるのは、渇きの砂に佇むも、だが大いなる安らぎに満ちた祈りの城……と」
「渇きの砂の……。異国の、砂漠の事でしょうか」
クリフトは肩をすくめた。
「随分と回りくどい、難解な卦ですね」
「その時は聞いても、何も考えなかったの。
ミネアったらクリフトが気に入っているものだから、わざとわたしたちに悪い事を言ってるんだわと、腹を立てていたから」
「まさか」
「でもそれじゃ、わたしたちの子孫は生きているのね。
砂の世界の中にあっても、わたしの生命力とクリフトの祈りを受け継ぎ、ちゃんと生き続けているのよね」
胸に落ちた不安が、淡い光へと緩やかに姿を変えてゆく。
わたしはクリフトの温かな身体に腕を回した。
「クリフト」
「はい」
「愛してるわ。ずっとわたしの傍にいて。
これから何が起きようと、どんな苦しみが待っていようとも。
火と水は相反するだけのものじゃない。火は雨を呼び、雨は水をたたえるわ。
だとすれば、私達がもたらすという砂の国にも、いつかきっと」
クリフトは不思議そうに蒼い目を凝らしてわたしを見つめ、それからすぐに、風が彼方へ吹き抜けていくように微笑んだ。
「砂は、星屑のかけらが月の光に乗って空より舞い降りて来たもの。
渇きにも負けぬ、強靭で健やかな命を育みます。
だからこそアリーナ様、貴方のように美しく咲き誇ることが出来るのですよ。
強く鮮やかで、決して屈しない生命の証、
砂漠の薔薇が」
下弦の月がやがて消え、幾つもの季節がうつろい過ぎては、再び夜の舞台に、輝ける主が姿を現す。
わたしたちの命の糸も紡がれて、空を流れる雲のように絶える事なく繰り返し、また続いていく。
いつかこの身が砂に還っても、必ずわたしは探し出すことだろう。
振り返るとそこにいて、春風のようにわたしを包んでくれた愛しい微笑みと、
空よりも海よりも深く、生涯わたしを愛し続けたあの蒼い目を。
何度も。
何度でも。
-FIN-