下弦の月の夜
いつの日からだろう、月を怖いと思ったのは。
どこまでも続く暗闇を破る金色の光は、夜毎に形を変えて眠る世界を照らし、そのあまりの静謐な輝きに、わたしはいつも空に月を見上げるのをためらったものだった。
静かに形を変えるものは、怖い。
暖かな光を注ぎつづける、普遍的な太陽をこそ、愛したいのだと。
でもそれを違うと言ったのは、彼だ。
「潮が満ちて引くように、人の心も光を放ちながらまた、何度も危うい弧を繰り返し描くもの。
だとすればまばゆく輝き続ける太陽よりもなお、影を負い形を変えながら、それでも光を集め続けようとする月を、愛しく思うのが人の常なのではないでしょうか」
それは決して消えることのない過ちを犯したわたしへの、彼の精一杯の赦しの言葉だったのだろうか。
月光に冷やされた風の香りを吸い込み、夜の木々のざわめきを耳にしながら、わたしはクリフトの胸に頭をもたせかけた。
「お疲れになりましたか」
「ううん、違うの」
ひとたび刻まれた傷は、どんなに時が経とうとも決して消えることはなく、わたしを想う限り、鋭い痛みを持って彼の胸を疼かせ続けるのだろう。
だとすればわたしは、再び彼が傷跡を振り返ることのないよう、泉から水が湧くように絶え間無く溢れる愛を、ただひたすら捧げ続けて行く事しか出来ないのだ。
「クリフト、好きよ」
「どうなさったんですか」
クリフトは面白そうにわたしを見た。
「先程から、そればかりおっしゃられています」
「国境を越えて、やっと二人きりになれたんだもの。好きなだけ言わせて欲しいわ。
それとも、うるさい?わたしがあなたを好きだなんて言葉、もうとっくに聞き飽きてしまったの」
クリフトは黙って微笑み、わたしに向かって頭を斜めに傾けた。
長い指に顎を持ち上げられて、目を閉じる。
羽根のように優しい口づけは、何故か切ないほどの哀しみを呼んで、瞼の端からひとしずくの涙がこぼれ落ちると、クリフトは指先でわたしの目尻を拭い、両手でそっと頬を包んだ。
「国を離れるのが、お淋しいのですか」
「違うわ」
「泣かないで」
「自分でも、解らないの」
「神にかけて、生涯貴方をお守り致します。
今世の生を終えた後、再び来世でも、また幾度の輪廻転生を重ねようとも、何度でも貴方だけを」
わたしはクリフトの掌の中で、泣き笑いの表情を浮かべた。
「すごく堅苦しいわ。わたしたちこれからずっと、二人きりで生きて行くのよ。
もうお前は臣下なんかじゃない。
もっと真っ直ぐに、言葉よりも先に熱が届くようなやり方で、伝えて」
クリフトは一瞬、困ったように首を傾げてわたしを見つめた。
だがやがて、蒼い目に日向水のような暖かな光が宿ったかと思うと、
もう一度触れ合う唇の隙間から、微かで、でも確かな熱さをたたえた囁きが、風に揺れる花びらのように、二人の間を舞いながらこぼれ落ちた。
「ずっと、ずっと、あなただけを愛してる。
忘れないで、アリーナ様。
それがわたしのこの世に生まれて来た、たったひとつの意味だから」
冬の気配を纏い始めた木々が、月光と戯れるように金色に輝きながら、葉の落ちかけた枝という枝を揺らし、弦楽器の調べのような晩秋の風鳴りを奏でている。
頬をくすぐる草の感触に、まどろんでいたわたしは起き上がり、肩からマントを羽織った。
傍らで身を丸めて目を閉じているクリフトの背に、もう一枚のマントをかける。
静かな眠りにたゆたう横顔には、もう苦しみの影は映っていない。
(知らなかった)
わたしは月を見上げた。
(こうして二人になれて、ようやく気付いたの。
手に入らないと思うことよりも、失いたくないと思うことのほうが悲しいだなんて)
それでもわたしたちが、限りある生を貪る人間である限り、
熱い血の巡る肌の温もりや、海と同じ蒼色をした瞳に、いつか必ず別れを告げなければならない時がやって来るのだろう。
けれどきっとわたしたちの足跡は、同じ場所へと並んで続いて行く。