下弦の月の夜
「幼き日よりお受けし続けた多大なるご恩、このクリフト、生涯忘れは致しませぬ。
早くに親を亡くし、修道院よりサントハイム教会に単身寄宿を赦されたこの身には、ブライ様は父とも、師ともお慕いするお方でありました」
「わしにはこんな親不孝な息子はおらん」
ブライの瞳も潤んだが、感傷を振り切るように力強く杖で床を打った。
「サントハイムの忠実なる民、クリフトよ」
「はっ」
只今これより、アリーナ王女は聖地ゴッドサイドに向け、即位前の巡礼の旅に出て頂く。
サントハイム領内は先程の衛兵隊が同行、厳重に警護するが、国境を越えてからはクリフト、神職を持つおぬしのみが王女の共をするのじゃ。
今宵は下弦の月、やがてこの月が満ちて空から姿を消す頃、冬がやって来よう。
地を覆う雪と嵐、山岳地を進むさなか、雪崩に巻き込まれて王女と従者クリフトは、行方不明となる」
わたしは目を見開いた。
「ブライ?」
「懸命の捜索にも発見に至る事なく、やむを得ずアリーナ王女の即位は、一旦完全な白紙と戻る。
御身の無事が確認されるまで、現国王陛下の御世が続くと定められ、従って当然、ジャンヌ王子もそのままサントハイムに留まって頂くこととなるであろう。
騎士団は幾年経とうと、捜索の手を止めはせぬ。
王女とクリフトは発見され次第、サントハイムへ連れ戻される事となるぞ。
故に言わずとも解るな、そなたたちが取らねばならぬ道は」
「大陸を出るわ!」
わたしは叫んだ。
「地図にもまだ名を載せぬ、新たな土地へと旅立つのよ」
「嬉しそうに言いおって」
ブライは渋い顔をした。
「後に残される者の苦悩を考えれば、そのような笑顔など浮かばぬはずじゃが」
「ごめんなさい、考えられない!」
わたしは身体を弾ませて、クリフトの胸に思いきり飛び込んだ。
「クリフト、クリフト!」
「はい」
「やっとよ!私たちやっと、何にも憚られることなく、二人で生きていくことが出来るのよ。
幼い頃からずっと夢見ていたの。命の終わりが来るまで、この身がお前と共にある事を。
これから先、どんな困難が訪れたとしても、もう絶対にお前と離れたりしないわ。
すぐには無理かもしれないけど、わたしきっと、貴方のために尽くす貞淑な女性になってみせる。
だから、ずっと……。ずっとわたしを見ていて、クリフト」
「勿論です、姫様」
クリフトは頷いて、わたしを抱き寄せた。
「有りのままの貴方を、永遠に」
陽光に包まれるような、目も眩む幸福感が、津波のように全身を駆け巡る。
だがそれはごく一瞬のことで、背中に回された腕は、互いの温もりを確かめる前に外されると、クリフトはわたしの肩を両手で掴んで、そっと身体を離した。
「さあ、ご命令が下った以上、出来るだけ迅速に出立しなくてはなりません」
「ずいぶん淡々としているのね、お前」
わたしは口を尖らせた。
「わたしはまるで、夢の中にでもいるような心持ちなのに」
「クリフトの反応が正常なんじゃ。
まともな神経の持ち主なら、このような状況を手放しで喜んだりはせぬ」
ブライは肩をすくめたが、その目はめったに見られる事のない柔和な笑みをたたえていた。
「ま、その奔放さが、サントハイムの誇るお転婆姫たる所以であるがな。
散々手を焼かされはしたが、わしは決して嫌いではなかったぞ、アリーナ姫の天衣無縫さが」
「ブライ、ありがとう」
わたしは今度はブライに抱き着いて、尖った鷲鼻の先に何度も口づけた。
「大好きよ。お前の優しさと厳しさ、決して忘れはしない」
「こ、これ、やめんか」
「ブライ様!サントハイム衛兵隊、只今戻りましてございます!」
「む……戻ってきおったな、よし」
わたしの腕をすり抜けると、ブライは素早く表情を引き締めた。
長衣の袖を払い、空そのもののように高い教会の天井に向けて、貫かんばかりに高々と杖を掲げる。
「王女アリーナ、そしてクリフトよ!」
「ええ!」
「はっ」
時を告げるように明瞭な声が、巨大な鐘の音のごとく韻々と響き渡る。
「勅命は下った。東から差す月光を頼りに、速やかに出掛けるがいい。
今生にて再び相見えること叶わぬかもしれぬが、陛下を始めわしらサントハイムの民は、
そなたらの永の幸福を心より祈っておる。これだけは紛う事なき真実じゃ。
そして願わくば永く睦び合い、健やかでな。
例えこの世界がどんなに形を変えようとも、お前たちだけは決して……、
変わらずに」