下弦の月の夜
クリフトは目を伏せた。
「陛下の思し召し、堅く心に命じ、生涯この身を賭して姫様をお守り致します」
「クリフト、お前がお父様にこの事を告げたの」
「昨夜アリーナ様がお戻りになられたのち、ブライ様に」
クリフトはわたしを見つめた。
昨夜までのやつれた様子は、表情のどこにも窺うことは出来ず、心を決めた蒼い目は澄んで、清水のように穏やかな光を浮かべていた。
「いかに夜更けとはいえ、我がサントハイムの国境警備は大変に厳しく、
仮に逃げおおせたとしても、もし騒ぎを起こして事態が民衆に露顕してしまえば、貴き陛下のご威光に深い傷がついてしまわれることでしょう。
ブライ様に全てを話し協力を仰がねば、この計画はおそらくうまく行かぬと、考えた末に」
「それが賭けって意味なの。どうかしてるわ」
わたしは怒りにかられて叫んだ。
「ブライはお父様側の人間よ。殺されるために自分から、みすみす首を差し出しに出向いたようなものじゃない」
「それで裁きを受けることになるなら、それこそがわたしへの神のご意思かと」
「冗談じゃないわよ!」
わたしは足を激しく踏み鳴らした。
「神だかなんだか知らないけど、そう簡単に人の命を奪わせてたまるものですか!
なにがあろうと、わたしはクリフトと共に生きていくわ。
絶対に誰にも邪魔はさせない。
例え国王のご威光とやらが失われてしまったとしても、そんな事じゃお父様の身体そのものには、傷ひとつつきやしないのよ。
人間の本当に大事なものは、そんな所にはありはしない。
お前よ、クリフト。お前と共にいたから、わたしはそれを知ることが出来たんだわ!」
「やれやれ……相も変わらず、思い込んだら鋼の意志じゃ」
ブライはため息をついた。
「世界一情ごわい雌虎を、わざわざ野に放つのじゃからな。御するのに苦労するぞ、クリフト」
クリフトは静かに微笑んだ。
「何にも揺るがぬお志の強さも、姫様の大きな魅力です」
「そりゃ随分と変わった趣味じゃ。わしには理解出来ぬ」
ブライは肩をすくめた。
「王女とは常に優雅で気品に満ち、たおやかな百合の花のようであるべきもの。
その思いは今でも変わらんが、姫が己れの生き方を貫いたゆえ、かつて世界が救われたのもまた事実。
じゃがアリーナ姫よ、いかに怒り恨みに思おうとも、陛下とわしは間違ったことをしたとは思っておらぬよ。
王女たる者は婚姻をし、聖なる君主の血をとこしえまで継いで行かねばならぬのだ。
かの天空の勇者の倣いもあるゆえ、血というものが時にどんな偉大な力を生み出すのか、姫にも解る事じゃろう。
その可能性も未来をも閉ざしてしまう選択は、王族としてやはり許されざるものじゃ」
「まるでわたしを、子を為す機械か何かのように言ってるけれど」
わたしはブライを睨んだ。
「古い血はいずれ澱むわ。新しい血はまだ知らぬ新しい力を生む。
いつかもし、わたしの力を受け継ぐ者がこの世に生を受けるとすれば、それは同時に、クリフトの祈りの力を受け継ぐ者でもあるのよ」
「強さと癒しを兼ね備えた者が生まれいづれば、それは又となき偉大な支配者の誕生となることじゃろうが、はて、果たしてそのようにうまくいくものか。
わしには恐らく、それを見届けることは出来ぬじゃろうが、確かに楽しみではある」
ブライは杖を持ち上げると、柄でクリフトの腰の辺りを軽く押した。
「そのためにもクリフト、お前にはよい子種をこしらえて貰わねばならぬな。
まずはしっかりと飯を食べろ。枯れ枝のように痩せてしまいおって。
惚れたはれたで身体にまで影響をきたすなど、真の男丈夫のやることとは言えぬぞ」
「は」
クリフトは顔を赤くした。
「諌言、痛み入ります」
「さて、若いゆえ食えばすぐに元通りになろうさ。
姫と共に旅立つという事の重責と、また国と神の定めた戒律に背くという罪、その胸にしっかと刻んで生きてゆくがいい。
身体をいとえよ」
「ブライ様」
声を震わせ、クリフトはその場に膝まづいた。