下弦の月の夜
まるで猫のように素早くベッドから滑り降りると、わたしは石床に脱ぎっぱなしにしていた、革製の編み上げ式の長靴に足を通した。
「カーラ、行くわ」
「アリーナ様!」
その時、最後に見たカーラが浮かべていた表情は、時が過ぎ、それから幾瀬も季節が流れてもなおわたしの心の奥底に深く刻み込まれ、永い間忘れられぬものとなった。
「ご無事を……お祈り申し上げております」
「大袈裟ね」
わたしはにっこりと笑ってみせた。
「思い出話をしたら、なんだかカーラお手製の、鳩のローストが食べたくなって来ちゃったわ。
ただ窯で焼いただけなのに、頬っぺが落ちそうなくらい美味しかった。
お母様の手料理をわたしは知らないから、あなたの作る料理が、いつもわたしにとっての母の味だったのよ、カーラ」
「アリーナ様……!」
両手で顔を押さえ、崩れるようにその場にしゃがみ込むカーラの姿を背に、わたしは部屋を出た。
何があろうと、もうとどまる訳にはいかない。
わたしはただ、前に進むのだ。
「来たか、アリーナよ」
回廊を渡り、荘厳に並べられた石柱の群れを越え、辿り着いた広間の中央に、黄金のレリーフがちりばめられた、びろうど張りの椅子に深々と腰掛け、
国王聖サントハイム二十四世は、傍らに小姓を置き、扇で風を送らせながら静かに目を閉じていた。
「おはようございます、お父様」
「もう日が暮れると言うのに、今頃目覚めの挨拶か」
「体の調子が思わしくないように感じ、つい遅くまで床に入っていてしまいました」
父親は緩慢な動きで目を開くと、わたしを見た。
「体が。流行り風邪でも得たか」
「かもしれません」
「病知らずのお前が、珍しいことだな。薬師を呼ぶといい」
「ご心配には及びません。二、三日も安静にしていれば、すぐに元に戻りましょう」
「二、三日。それでは遅すぎる」
血を分けた肉親というよりは、常にサントハイムを統べる国主という存在でしかなかった父の酷薄な目が、氷柱のように冷たく底光りする笑みを滲ませた。
「二日後には、お前はもうここには存在せぬものとなっているだろうさ」
「どういうことでしょうか」
わたしは表情を険しくした。
「おっしゃる意味が、よく解りませんが」
「無垢な娘であったはずがいつの間にか、したたかな狐のような悪智恵を身につけおった」
深紅の王衣を指で払うと、重々しく立ち上がる。
わたしは身構えた。
「謁見に際して、その腰にぶら下げている物騒な武器は、そも何のつもりか」
「わたくしは武術家。
日々の鍛練を兼ね、またいつ何時も城の護衛に一役買えるよう、実際の武器を携帯することは日常茶飯事です」
「体調を崩し、床に臥せっていたと言っておきながら、その直後にもうそんなもの持ち歩くというのか」
「わたしにとっての武器とは、世間の姫君にとってのきらびやかな装身具のようなもの。
今に始まったことではございません。そのように目鯨を立てる必要は」
「卑しくも聖サントハイム王国の、唯一にして無二の王位継承権者として、広間に武器を持ち込むという行為、あまりに儀礼を欠いた振る舞いであるとの自覚はないのか」
「わたしは物ごころ着いた時から、常にそうして暮らして来ました。
お父様がお気づきにならなかっただけ、いえ、気づこうともしなかっただけだわ。
わたしの中にはいつだってこの城を飛び出し、見果てぬ空の下で戦うことへの衝動が渦巻いていた。
それを19年間、ただの一度も知ろうともせず、今更」
「減らず口は止めよ!」
雷鳴のごとき一喝が広間に轟き、父は鋭くわたしの前に歩み出た。
「下らぬ世迷い言を聞くために、お前を呼んだのではない。
こちらから咎めることはせぬという、精一杯の情けをかけたにもかかわらず、婚礼を上げて尚、王女にもあるまじき愚行を止めなかった罪、万死に値するとは思わぬか!」
「……やっと言ったわね」
その言葉が耳を突いたとたん、焼けつくような痛みと共に、怒りが火のように体中を包んだ。