下弦の月の夜
「……様、お目覚め下さいませ。アリーナ様」
意識の彼方から、誰かの呼ぶ声が響いている。
闇の中でゆりかごのように体を揺らされる感覚に包まれ、ぼんやりと瞼を開くと、眩しい光に混じって、侍女の心配げな顔がわたしをじっと覗き込んでいた。
「カーラ……おはよう」
「アリーナ様ったら……。おはようではありませんわ」
母のいないわたしを、幼い時から実の娘のように世話して来た古参の侍女は、深いため息をついた。
「一体、何度お起こし差し上げたと思っていますの。
もう日が沈みます。まるで梟のように、いつまでもお眠りになって。
どんなにお呼びかけしてもぴくりとも動かないし、どこかお悪いのかと、本当に心配致しましたわ」
「わたし、そんなに眠ってたのね」
ではなにもかも失うことになるかもしれぬ、命懸けの逃亡の直前だというのに、わたしは子供のように夢も見ずに眠って、疲れた体をしっかりと回復させたというわけだ。
自分の神経の太さに我ながら感心してしまい、横たわったまま思わず笑みをこぼすと、カーラは不審げにわたしの額に手を当てた。
「お熱は、ないようですけれど」
「熱なんてないわ」
わたしは笑いながら言った。
「知ってるでしょ。わたしはいつも向日葵みたいに元気……、じゃなくて」
昨夜クリフトに言われたことを思い出し、わたしは慌てて苦しげな顔を作った。
「なんだかだるくて頭が痛むの。食欲もあまりないわ。
明日もこうやって一日横になっているから、起こさずにおいて頂戴」
「アリーナ様が食欲がないだなんて」
カーラは信じられないというように、目を見開いて首を振った。
「恐ろしい。嵐が来ますわ」
「失礼ね。わたしだって、食欲のない時くらいあるわよ」
「いいえ」
カーラは断固として言い切った。
「アリーナ様はどんなにお体の具合が悪かろうと、しっかりとお食事を取られるお方です。
そのおかげでいつも治癒が早く、大きな病気をしたことが一度もなかったのですから。お小さい頃からずっとそうでした」
「わたし、そんなに食べていたかしら。子供の時も」
「それはもう」
カーラは深く頷いた。
「見ていて気持ちがいいほどでしたわ。
料理人たちは失礼ながら、姫様は胃袋に狼を飼っているのだと、口を揃えて申し上げておりました。
料理と言えばいつでしたかしら、姫様がある日いきなり野鳩を捕らえて来られ、
これをあと百羽捕まえて来るから、みんな焼いて教会の炊き出しに使いなさいと言い出されて。
実際に捕らえようと独りで森にお入りになり、暗くなっても戻らず、捜索隊まで組まれて、あの時は本当に大騒ぎでしたわ」
「覚えてる」
わたしは演技も忘れて起き上がり、弾んだ声を上げた。
「初めて礼拝で賛美歌を独唱した十歳の時ね。
ブライが止めるのも聞かず、祈りのあとわたしは城下の皆と共に道端に腰掛けて、教会の日曜恒例の振る舞いを食べたのだったわ。
乾いたパンと野菜の根のスープ、子供達には萎びた林檎が配られて、今よりもっとずっと傲慢だったわたしは、つい叫んでしまったの。
これだけなの、クリフト?って。
するとクリフトは微笑んで言ったわ。
「姫様、神は必要なものを必要な分だけお与え下さいます。
わたしたちには、これで充分なのです」と。
まだ食べ盛りだった彼のあの時の曇りのない目、まるで海の色に輝いた、汚れなき真珠のようで」
わたしは口をつぐんだ。
「……ごめんなさい。とにかく食事はいいわ。
後からお願いするかもしれないけど、今は」
「かしこまりました」
聡明なカーラは何も聞かなかったように、穏やかないらえを返した。
「お食事もですが、アリーナ様。
お休みの所をお起こししたのは、実は陛下がお呼びなのでございます」
「お父さまが?」
聞いた途端、喉の奥にさっと冷たい痺れが走る。
国を捨てるにあたって、なによりもわたしが危惧していたのは、国王として君臨する父が持つ、類い稀なる予知の力だった。
齢を重ねるごとに、その霊力は徐々に衰退しているとは言うが、なんとしても手の内に留めておきたい破天荒な娘の企みを事前に読み取る程度の力は、おそらくまだ残っているだろう。
型破りな一人娘に手を焼き続け、めったに二人きりになろうとはしなかった父親が、
今わたしを呼んでいる。