下弦の月の夜
真新しい朝の光が差し込む寝室の隣。
衣装部屋の壁に掲げられた銀の姿見の前に立ち、自分を見つめる。
強情そうな鳶色の目、引き結ばれた唇とそして、明日へ踏み出すため力を込めて地を捉える二本の足。
(姫様、そんなに張り切ってお歩きになると、世界中の大地に姫様の足跡が残ってしまいますよ)
かつて旅の最中、仲間を気遣かってはいつもしんがりを務めたクリフトが、笑いながらよくわたしをからかったものだった。
でも、今ならこう返せる。
わたしは足跡を残したいのだと。
この森羅万象の命を孕んで広がる豊かな大地に、自分の生きた証を、大切な愛を手にした証を刻みたい。
それがどんなに泥にまみれた足跡であっても、いつか限りある生を終えてこの身が土に還る時、
背中まで続いたその跡を確かめることが出来たなら、例え焦土の上であろうと、わたしは心満たされて眠りに着くことが出来るだろう。
わたしは、わたしの信じるものを信じる。
「お母様」
鏡の向こうから、亡き母親に瓜二つだと言われた瞳を凝らして、こちらを見返す少女が呟いた。
「わたし、行くわ。間違ってないわよね。
ううん、もし間違っていたとしても、わたしはいつかきっとこうしていた。
わたしはクリフトと共に生きる。
心配しないで。いつかはわたしもクリフトもそこに行くわ。
そう遠くはないと思う……人生なんて、瞬きくらいあっという間だもの。
だからそれまで見ていて、お母様」
華美な服装は、小さな頃から苦手だった。
裾を絡げるドレスを嫌い、いつも動きやすい絹の短衣ばかりまとっては、父やブライを舌打ちさせ続けて来た。
衣装部屋の白木の箪笥には、今でも王族としては不自然なほど簡素な服しか吊り下がっておらず、
わたしは空き場所の目立つ引き出しの奥から、油紙に包んで隠しておいた、使い込まれた鉄の爪をそっと取り出した。
丈夫な鹿のなめし皮で出来た腰袋に落とし込むと、ずしりと快い重みが鳩尾に響き渡る。
空気に混じる、微かな鉄の匂い。
血が呼び覚まされる。
しばらく忘れていた熱いざわめきが、足元から疾風のように這い登って来て、頭の芯までをあっという間に熱風で包み込む。
どうして忘れていたのだろう。
わたしは武術家だ。
傷を癒せないわたしにはただ、クリフトのために戦うことしか出来ないのだ。
自分自身の愚かさへの償いも、言葉にし尽くせない魂からの愛情も、全てわたしは、戦うことで表現するしか出来ないのだ。
まるで忘れていた大切な記憶を取り戻したかのように、不意に世界が鮮明に色づいて見え、
わたしは深く息を吸うと、身体のすみずみまで酸素が行き渡る心地よい感覚を、目を閉じてゆっくりと味わった。
今夜の出発に備えて、少し仮眠を取らなければならない。
天窓から覗く白く高い空を、首をもたげて見る。
下弦の月は横柄な太陽にその舞台を奪われ、まだひそやかでわずかな眠りについたばかりだ。
旅立ちの前であるというのに、いっときの眠りも取らぬまま、生真面目に祭壇に膝まづいて祈りを捧げているであろう彼を思いながら、わたしはベッドに横たわって目を閉じた。
明日の朝陽はどうか、二人だけで寄り添いながら見上げるものであってほしい。
その頃、サントハイム城下の教会を、ものものしい足音と共に武装した多数の衛兵が取り囲んでいるのも知らずに、
わたしはまるで引き込まれるように、幸せで深い、幻のような眠りの底へ沈み込んで行った。